烏の足跡



2002年9月1日(日)

 「自分自身の気持ちがゆったりと落ち着いて、静かに流れていればこそ、人の心の動きも察知できる」

 と、ある本に書いてあった。
 まったくそのとおりだと思った。

 自分の心に余裕がない時は、他人のことを考慮することが難しい。
 できうれば、些事は笑い飛ばして常に余裕をたもち、大事には容赦せず全力でぶつかるような、そういう生き方がしたいもんだぁね……。



2002年9月2日(月)

 今はもう付き合いはないが、私の友人だった人たちの中に、「ものすごく美形なんだけど、○○○○なんだよなぁ」という人が何人かいる。

 とある女の子(当時)は、目はぱっちりと、アイラインは化粧をしたわけでもないのに日本人にしてはくっきりとしており、その他目鼻立ちも尋常、長身。性格はおおらかでさばさばとしていて、趣味はお菓子作り、とステキな子だった。
 ただ、彼女は「ぽっちゃり」とは言えないくらい、太っていた。
 どっちが縦か横か分からない、坂道でコケたら坂の下まで転がりそうなほど、ではないが、お世辞にもスレンダーだとか「太ってなんかないよ」とは言えない体型だった。

 とある青年も、日本人離れした二枚目だった。二の線、などというのではなく、彫りの深い二枚目だ。目は大きく鼻は高く、八重歯も見苦しくはない(欧米だとマイナス要素だろうが、日本ではチャームポイントになるしな)。性格も、気取りがなくて自然体。学校の勉強はともかくとして、頭は決して悪くなく、人の話はいつでもちゃんと聞いてやろうとするような、それでいて無駄に善人ぶろうともしない、好青年だった。
 ただ、彼は足が短かった。
 パッと見て胴との比率が分かってしまうくらい、どう頑張っても人並みよりも短い足だった。

 と書くと「ひでぇことを」と思われそうだが、どうしても私には、「太っていること」と「足が短いこと」はそれぞれの人の欠点や笑いどころではなく、それこそチャームポイントだったんだったりする。
 つまり、性格はもちろんとして、二人の外見が好きだった。
 一度として、「太ってるせいで」とか「足が短いせいで」可愛さ、かっこよさが減ってしまっている、とは思わなかった。
 二人の性格がいいことも無関係ではないと思うが、単純に、そういうところに愛嬌があったからだ、とも言える。

 だからなんだっつーわけじゃない。
 ただなんとなく、あの人にはいつでもふくよかで世話焼きでいてほしいし、あいつにはいつまでも足の短さネタにして自分のことを明るく笑える大きさを、なくさないでいてほしいなぁ、と思うだけである。



2002年9月3日(火)

 学生時代、遊ぶ金を作るためだとかで、アルバイトをする人がほとんどだと思う。
 就職するまで働いたことがない、なんて人は、あまりいないように思うんだが、いるところにはいるんだろうか。
 なんにせよ、権利も少ないかわりに責任も薄いアルバイトという身で、社会というものを覗いてみるのは、いいことだと思う。

 これは私見だが、私は、バイトはいくつも体験したほうがいいと思ってる。
 自分自身が、続いて二年、というタチだから、当然いろいろな店に首を突っ込んできたし、短期のものも含めれば、かなりいろいろとやってきている。
 しかしその実体験をもとにして言えば、いくつも体験してみろ、というのは、業種を、じゃない。職場を、だ。

 たとえば同じ飲食店というジャンルの店でも、その店の考えというものは、違ってくる。チェーン店の中でさえ、店によって違うところはある。同じことについても、ある店ではこういうふうに考えていたが、この店ではこう考えている、とか。
 長い間一つの店に勤めていると、その店のプロフェッショナルにはなれるが、他にもある「正解」や、その店が気付いていない重要な点というものを、見ないまま終わってしまう。
 それぞれの店にマニュアルは存在して、そのどれが正しくてどれが間違いということはないが(よほどテキトーな店なら分からんが)、一長一短があるのが普通だ。

 業種が違えば、なにを第一とするか、も違ってくる。
 丁寧な接客か、それともスピードか。笑顔のトークか、無表情でも的確な判断か。
 そこで求められている技能を、完璧にでなくてもいい。少しでもかじって身に着けておけば、それはやがて、しっかりと板について自然なものになってくる。それが結局、後々になって、自分をアピールするのに役立ったり、逆にミスを補うのに利用できたりするわけだ。
 はっきり言って、接客業の極北であるホスト・ホステス系を二年ほど辛抱してちゃんとやりこなせば、その辺のスーパーで求められるレベルの「スマイル0円」など、なんの苦もなくできるようになるぞ。

 考え方やものの見方の選択肢・視点を増やすという意味で、いろんな職場を経験するのは、無駄じゃないと思う。
 まあ、そのたびにいちいち新人からやり直すのは嫌だ、という人もいると思うけどさ。



2002年9月4日(水)

 興味のないジャンルの雑誌なんかは、開くこともない。
 手にとることもない。
 だから、否応なく触るようになって初めて知ったんだが、女性誌ってなんであんなにクソ重いんだ……?(汗

 版がでかいのは分かる。ファッション雑誌なんだから、写真がでかくはっきりしてるほうがいいのは当然だ。色をきっちりと伝えるため、カラーの精度を上げようとすれば、使用する紙も厚手で光沢のあるものになるのは分かる。
 分かるが、それにしたって、ものによっちゃ一冊1kgあるんじゃないか?
 そんなものを二冊も三冊もまとめて買っていくお客さんがいるわけで。
 こっちは片手で袋の口開きつつ、逆の手一本でその重量支えて、中に入れる。三冊くらいまでならなんでもないが、これが五冊くらいになると、中央を持てるわけではないから、感じる重量はかなりのものになってくる。結果、二度に分けて入れたりするんだが、それをひょいと抱えられるのを見ると、「なるほど、だから母親は子供を片手で抱えられるのか」とかバカなことにつなげて感心してしまったりして。



2002年9月5日(木)

 4日アップ分の「その他」にあるSS二本について。

 死ぬほどまぎらわしいというか、どこまでがノンフィクションでどこからがフィクションか、かなり微妙な仕上がりデス。
 完全にノンフィクションかもしれず、完全にフィクションかもしれない。
 正解は言いませんので、そのへんのややこしさをたっぷりと楽しんでください。
 うくくくく……。



2002年9月6日(金)

 できる奴とできない奴の端的な違い。

 できる奴は、他人のミスについて、自分にもなにかミスはないかと振り返り、まずい点がゼロではない、と考える。だからミスした奴をあれこれ一方的に責めることはなく、うまく注意する。

 できない奴は、自分にはまったくミスがないと思い込んでいるから、簡単に人のミスを責める。そして自分を振り返ることをしないから、いつまでたっても進歩がない。

 他人がなにかミスをして、それで自分が多少迷惑することがあったとしても、そこに到るまでの間に自分にもなにか落ち度がなかったか、よく考えてみることだ。
 たとえば貴方が「先輩」の立場なら、的確な指示を出さなかったかもしれないし、あらかじめ教えておかなかったのもまずかったのかもしれない。
 同僚でも、その人が不得意とすることを押し付けて知らん顔していたりはしなかったか、あるいは自分の不手際のせいで問題がこじれたようなことはないか、考えるところはたくさんある。
 そして、気のせいでもなんでもいい。なにか「あ、俺も(私も)まずかったな」とか、「ああしてやりゃ良かったかな」」と思いつけば、そこを正すことができる。たとえすぐには正せなくても、気にかけることができるようになる。
 そしてそれが行動に結びついた時、その人は一歩進んだことになる。
 自分にはまずいところなどない、と思い込んでいる奴は、これがないから、いつまでたったって進歩しないわけだ。



2002年9月7日(土)

 死ぬほど久々に、男塾に新作SS追加。
 新作といっても、書いたのは一年くらい前だっつーウワサもあるが(死

 しかし、塾関係のかたがこれに気付くのはいつなんだろう。
 そう思うと、少し楽しみだったりする(←ひねくれ者

 ついでに『Glass Rose』シリーズの二本だけ移動させた。
 以前のmy roomのシステムでアップした話は、大半がアップした後で修正し、原稿のほうはミスなどの残ったままになっている。
 これが移転がなかなか実行されない理由でもある。
 ただ、『Glass〜』の二本だけは、プリントアウトしたことがあるため、手直しが入っているのだ。
 そんなわけであらためて読み返してみたりするんだが……自分で書いた話の中じゃ、かなり好きな部類に入るなぁ、これ……。



2002年9月8日(日)

 昨日オンラインゲーム上で、「打ち上げ」という単語からどんどん広がり、飲み物談義に入り、食い物談義に入った。
 私はこれまで自分のことを、辛いものは苦手だが甘いものはいける口だ、と思っていたが、どうやら私程度では甘党とは言えないらしい……。
 砂糖入りのココアの粉末、半瓶そのまま舐められるって、ねえ、みんなそんなことできるの、ねえ?T□T



2002年9月9日(月)

 秋の果物といえばいろいろあるが、先日から、梨ばかり食べている。
 しかしどうにも「美味い」という梨に出会わない。
 やたら硬くて味も薄く、酸味が強かったり、逆に無駄に柔らかく甘かったり。
 私の求める梨はいづこ……。



2002年9月10日(火)

 ようやく昼の素ざしが苦にならない季節になった。
 そろそろ新しいカレンダーやスケジュール帳なんかが売りに出される季節でもある。
 私はスケジュール帳というのは、……毎年もらったりして手に入れるんだが、まともに使いこなせたためしがない。
 「書き込み、チェックする」という習慣がつかないかぎり、書き込むことも見ることも手間で、結局その辺のカレンダーとかメモに、「○日、XXとXXで。17時」とか書いて終わる。

 それでも、今年も「事故品だから安く買わない?」と言われ、「いや、使いませんから」と断ったのに、結局他の連中も全員いらないと答えたらしく、バイトを終えて帰ろうとした時には、「あげるから」と押し付けられる始末。
 それも、ファー表紙、豹柄。
 なんか、一昨年あたりにはゲーセンの景品で、似たような手帳があって(中身の紙は黒でインクの吸収が悪くて使い物にならず、外柄は真っ青な豹柄という悪趣味なモノ)、その時の昼間のチーフが「お客さんの忘れ物だし、とりにこないみたいだから」と、やはりもらった記憶が……。

 ……豹柄よりゼブラのが好きなんだけどなぁ……。



2002年9月11日(水)

1.
 素材屋をふらりと巡る。
 自分の趣味ではなかろうとも、話の内容に合わせて壁紙を入れよう、とするとほしくなるものがけっこうあるので。
 しかしそれでフラフラと見て回っていると……。

 フリーウェアのところは、いい。まあ、要するに勝手に持ってって勝手に使ってね、ただし度を越えた加工とは二次配布はダメだよ、ということだ。
 リンクウェアも、リンクのページに入れてくださいね、とか、どこか分かりやすいところから張ってね、というのは、分かる。
 しかし、「使用したページに必ず」って、おまえ、そんなにヒット数のばしたいのか?
 フザケンジャネエ、とそこはさっさと立ち去りますた。

2.
 ここ数日で一気に「居酒屋・烏」の移転を進める。
 残すは書きかけのものと、途中で選択肢があるためにどうしても複数ページに渡る仕掛けで作らなければならずに手間のかかるもの(爆
 そんなことをしていたら、久々に伊達が描きたくなった。そしてまた、アホな話を思いついてみたりして……。



2002年9月12日(木)

 おかしな夢2連発。
 一つは、公開オークションによる人身売買。
 なんかそれも、私と、私の知り合い(昔のご近所さんなおばさん一家)との間で、そのおばさんの孫くらいにあたる女の子を取り合うという。
 おばさんがなんか卑怯な手で無理やり競り落とした後で、私は「くだらねえ野郎があんたと同じ手でこの子落としてたらどーするんだ!?」とものすごい勢いで食ってかかってた。
 手近にあって窓ガラス、殴りつけてぶち割ってたからなぁ……。
 そんな本筋(?)とは裏腹に、おそのおばさん一家は、うちの前のビルの4階に住んでいるようなのだが、「誰がきてるの?」という問いかけに、おばさんたちを示して、指を四本立てて見せる、というのが、小粒だがひねりのきいたいい技だと思った。「例の4階の人たち」という気のないやりとりで、好感を持ってないことを表現してるのではないかと(←ここでもネタにするか

 もう一つの夢は、なにかの店の入り口(風除室)に私他二人、計三人がたむろしてるんだが、そこに、ゴミを配置しに来る人が出てくるのだ。そのおっちゃんは灰色の綿埃を、箒で丁寧に散らかしていく。
 それは、ここを掃除する人のために仕事を用意してあげている、ということでもあるのだ。ここの掃除だけが自分の存在意義みたいな人に、わざわざ仕事を作ってあげるという親切なのだ。
 掃除人はそんな気遣いなど知らず、「またこんなに汚れてる」とブツブツと文句を言いながら掃除をするのだが、ゴミがひとつも落ちていない日が毎日続いたら、その人には存在意義がなくなってしまうのである。
 なんだか意味もなく深い夢だった……。



2002年9月13日(金)

1.
 「輝ける子」 明橋大ニ・著 1万年堂出版

 何冊か押し付けられて、どれでもいいから自分がいいと思うもので一つPOPを書け、と仕事をもらい、それらをパラパラとめくって見る。
 中で、これは私も買おう、と思ったのが↑だった。
 医者でカウンセラーという人の書いた、子育てに関するような本なのだが、実際の子供の視点や親の視点を第一にして、おかしな常識や先入観なく、平易な文章で書かれていて、とてもいい。
 「うんうん、たしかにこう言われたらこう思うよなぁ」と思うところも多々あった。
 反抗期の子供抱えて困っていたりする人だけではなく、なにか家庭や学校で窮屈な思いをした子供時代を持っている人は、一読しても損にはならないかもしれない。

 話は逸れるようだが、私は、自分には絶対に子供はいらない、と思っている。
 何故なら、その子をちゃんと育ててやれるとは思えないからだ。
 とりあえず、クソやかましく泣くガキは階段から蹴り落としたくなるし、ダダこねて泣き喚くガキは殴りつけて黙らせてでも店から出せと言いたくなる。
 自分の子なら違う、なんてーのは、思い込みだ。
 そんな思い込みでガキ作ったはいいが、虐待することになる親だっている。

 そういった感情的な部分だけで、嫌だというだけじゃない。
 子供には子供の社会があって、親が全ての責任を負うことはない。法律上ではそうなろうとも、子供自身に、自分の責任だ、としっかりと背負わせたほうがいいこともある。
 けれど、それを背負ってしっかりと立っていられる子供にしてやれるかどうか、という初動段階は、親の責任によるところがあまりにも大きすぎる。
 そこでミスしたとしても、あとで修正はきくだろう。だが、人の心を導く、ということを考えると、非常に慎重、かつ賢明であらなければならない。
 少なくとも、自分の目に見えること、耳に聞こえること、感情だけでパッと判断して、子供の目や耳や感情をないがしろにしてしまうような、そんな押し付け型の親では、子供は親の言いなりか、反発するか、どちらもできずにつぶれていくかの三つに一つだ。

 私にも「どうせならこんな親(大人)になりたい」という理想はある。
 少なくとも、「家」という場所で子供を追い詰めるようなことだけはしたくないと思っている。ただし、逃げ場にもしない。子供が落ち着いて考えられる場所、他ではできないささやかなワガママを許される場所、だ。
 親だから、ではなく、一人の人間として、「こんなことあったんだけどさ」と子供から安心して相談してもらえるような、そういう親でありたい。
 頼りがいがある、というのではなく、肩を組めるような関係、だ。
 自分より若いからといって、子供のほうがバカとはかぎらない。子供の言うことがどんなに理不尽に思えても、そこにはなにか、自分にも納得できる思考や感情の経緯があるかもしれない。
 そういったことを、ちゃんと見てやれなければ、親になどならないほうがマシだと思っている。

2.
 「蒼いくちづけ」 神林長平・著 早川書房(文庫)

 私は、氏の作品は、はるか十五年ほども昔に「言葉使い師」で触れ、その独特の雰囲気と物言いたげな(つまり「分かるような分からんような」)内容に惹かれていたが、他の著作を熱心に読み漁ることはしなかった。
 もともと私は読書家ではないし、その頃は読むよりも書くことと描くことに集中していた時期でもあった。
 それが大学時代には友人に勧められ、一年〜二年ほど前にもバイト先の同僚からも面白いと言われ、「敵は海賊」シリーズに手を出した。
 そして今、この一ヶ月ほどの間に「七胴落とし」「プリズム」「猶予の月」「完璧な涙」「狐と踊れ」とたてつづけに読んできた。先月、「宇宙探査機 迷惑一番」が改めてハヤカワ文庫から出されたのも読んだ。

 そのどれもが面白くて気に入った、ということはない。短編集というなら「狐と踊れ」もそうだったが、私には「言葉使い師」のほうが面白いし、繰り返して読みたい作品も多い。
 「猶予の月」はたしかに面白いし、時間ではなく可能事象の選択によって世界が動いている、という設定の(こんなふうに書いても誰も分かるまい。作品を読み勧めていくうちになんとか理解できてくるのが普通だ)面白さ、そういった着想に到る頭脳の素晴らしさなど、「こいつぁすげぇや」と脱帽ものなのだが、下巻に入ると物語がダレるという欠点もある(私にとっては、だが)
 「プリズム」は連作短編で、物語としてはそこそこ面白い、というレベルだったが、最後の最後、ラストの数ページで語られているコトが非常に印象深く、「ああ、なるほどな」とか夜中……どころか明け方一人で呟いてしまった。しかしまあ、そこはいいし、どこも悪くはないが、今一つ魅力には欠けた。「決着」がつかないままだというのも、消化不良っぽい。青と緑の将魔がぶつかってくれると期待してたんだけどなぁ……。
 「迷惑探査機」……もとい、「宇宙探査機〜」は散漫な印象があり、論理にせよ物語にせよ、ダイナミズムに欠ける気がしてならない。
 「狐と踊れ」の短編群には、印象に残るものがなかった。

 それでも、そこに繰り広げられるSF世界の設定や思想、発想、設定は、モノカキのはしくれには、刺激の宝庫と言える。
 そんなわけで、今月、この数日中に再発刊された「蒼いくちづけ」も、私は「入ったらとっといてください」と社員に頼んでおいて、しっかり買ってきた。
 そして、毎度のごとく後書きを読み、「この解説者は下手だな」と思いつつ、寝ておきたいのに(GC版PSOのため)どうしても眠くならず(起きたのが17時では無理もないという噂)、つい読み始めてしまった。

 ……止まりませんでしたT□T
 そして今は12日朝8時です。
 やや説明不足というか、表現不足の感はあるものの、さりげない冒頭からはじまり、事件が起こり、その捜索に準主役クラスの刑事が動きだし、事態を追っていくという流れの中に、期待と緊張が持続する。
 つまり「あれはどうなるんだ? これはどうなっていくんだ?」と、先を知りたくなるような仕掛けがきちんと施されている。
 そしてつい読み進めてしまううちに、大惨事が発生する。
 そして、「あれからどうなったんだ、あれっきりじゃないだろう」と伏線として用意されていた、ヒーローが再登場する。

 文学的にとか考えると、チープかもしれない。だが娯楽要素の強さが、ちゃんと「面白いもの」になってるんだから、テーマだけは深遠でもちっとも面白くない「佳作」なんかよりはよっぽどいい。
 そして、読み終えてすぐ、映画にしたら面白そうだ、と思った。そういう表現手段にも向いている内容と雰囲気だと思ったのだ。
 ややこしいことは省いて、登場人物の個性や映像、彼等の台詞と心情(演技)によって盛り上げ、動かしていきやすい物語だろう。
 SFX……というより、今はCG技術というべきだろうが、それを駆使すればリアルな映像も作れる。
 ただまあ、雑念のない純粋な殺意、殺意オンリー、という感情の醸し出す気配や雰囲気をどう表現するかとなると、読者のイメージにそれを任せることのできる小説が、一番簡単なのかもしれないが。

 いやまあ、とにかく、最近読んだ本の中では一番面白い話だった。
 ただ、後書き(解説)が下手だ。下手だというか、野暮だというか、的を外しまくってるというか、バカだというか(ぉぃ
 書かんでもいいことばっかり書いてる。
 もし、この「蒼いくちづけ」を読んでみようという気になり、購入したり借りたりする人がいたら、一つだけ言っといてあげよう。
 解説は、先に読まんほうがいい。
 後にも読む必要はない。
 読む意義がありそうなのは、最後の数行だけだ。
 私が解説するならば、「この物語は、殺意というイバラの森に閉じこもってしまった薄幸な少女と、彼女を救うべく現れるヒーローの物語としても読むことができる」ということを中心に据えるだろう(ライトな読者は、こういった分かりやすいガイドラインに惹かれるものだ
 そして、それを古今にありきたりな物語ではなくしているのが、テレパスという存在、SFの世界観。

 それにしてもまあ……「パーツが貴重だから、死んだ人間の体を再利用する」というところに必然性を設定するところなぞ、神林氏と私の発想はどこか近いものがあるのか、それとも誰でも思いつくことなのか……。
 生命維持の(内臓保存の)カプセルの設定なんか、PSOのメディカルセンターに設置してある「ポッド」に近いものがあるしなぁ。
 しかしま、どんなにいい設定があろうと、それを面白く見せる技術がないと意味ないんだけどね……っT△T
 そういう意味でうなったのは、氷温保存されているカプセルを開けると、白い冷気が瀑布のように台の上から流れ落ちてくるシーンがあるんだが、そこは問答無用に頭の中で映像になってしまったからなぁ。
 はあ……こういう「絵」の出る話が書きたいヨ……。



2002年9月14日(土)

 映画「コラテラルダメージ」は、昨年9/11の出来事のせいで、公開延期になった。
 今年の秋に公開されるという邦画「宣戦布告」は、はたしてどうなるんだろう。
 原作は既に文庫化されているくらいだから、そう新しい作品ではないが、「北朝鮮の工作員が日本に潜入して事件を起こす」という、今あまりにもホットな内容なのである。
 小泉さん次第で、この映画も公開延期になりかねない。

 それにしても、私は被害にあった側ではないから、それゆえに理解できないだけなのかもしれないが、何年も前に起こった出来事を、どうして何年も何年も、引きずろうとするんだろう。
 引きずってしまう、のは仕方がない。
 精神的な痛みというものは、物理的な傷が癒着して痛みを失っていくようには消えないものだ。そんなことは当たり前だ。
 だが、何故国家が、恨みを残す方向、植え付ける方向で働くのかが分からん。

 痛みは痛み、悲劇は悲劇だ。
 それを否定したり言い訳することはない。
 事実は事実として、伝えればいい。
 だが、国家やその出来事がどうであれ、一個の人間同士として向き合えば分かることもあるし、共感できることもあるだろうに、それを洗脳じみた教育で押しつぶして、敵意や反感を育てて、そこからなにか「いいもの」が一つでも生まれるとでも思っているんだろうか。

 昔の人がしたことだから、と過去の過ちに無関心でいるのは間違いだ、と偉そうな学者は言う。
 おまえらやっぱりバカだろ、としか思えない。
 そんな薄っぺらい言葉で、何が動くというのか。
 そんなことより、その「過去のあやまち」のせいで自分の祖父などを失った誰かと出会い、語り、仲良くなり、その痛みを知ったほうが、よほど心に響く。
 言葉や国家、理念なんてもので、いったいなにが分かる。



2002年9月15日(日)

 よく出てくるフレーズかと思うが「欠点を補うか、長所をのばすか」。

 欠点と長所じゃちゃんとした対義語になってないだろう、というツッコミはおいといて、最近、仕事場でそういうことを思う。
 どんなことをしていても、全てパーフェクトにこなせる人というのはいない。
 必ずどこか「ここはダメだなぁ」というところがある。
 具体的に言えば、たとえば「あいつはビデオのマスターバック(レンタルビデオの、返却されたものを所定の位置に返す作業)は速いんだけど、接客は愛想悪くてなぁ」とかいうことだ。
 あるいは逆に「あの子は接客は上手いんだけど、どうも仕事が遅いのよね」ということもあるだろう。
 そういう場合、なんとか足りない部分を平均に引き上げようとしたほうがいいか、それとも、得意分野で張り切ってもらったほうがいいか、ということ。

 そういった「人」を「使う」店の側からすると、全てが平均にできて、なんらかの長所もある、という形のほうがいいことは言うまでもないが、そんな逸材というのはなかなかいない。仕事能力的にいたかと思うと、仕事ナメてたり、態度が悪かったりしたりしてな。
 人間的にも不足のない存在なんてものは、まずいないと言ってよろしい(なにその語調
 だから結局は妥協することになる。
 人を育てる気、意欲のない店だと、欠点はほったらかしになる。
 だが、育てる気のある会社や職場の場合、たいていは欠点を補って平地にする方向を選びがちだ。
 それはたぶん、欠点は迷惑につながることがあるから、なのだ。
 面倒なことは減らしたいから、面倒のもとになるマイナス要素を消そうとする。それは客や取引相手に不快感を与えてはならない、ということもあるが、一緒に仕事してて、イライラさせられたりするから、というのもあったりして。

 しかし、私は、それはどーだかな、と思ってる。
 マイナスがあるなら、それを埋めるのではなく、プラスとして突出してる部分の働きで大目に見てやったっていいんじゃないか、と思うのだ。
 で、マイナスを埋めようと努力させるよりも、プラスを増やそうと努力させたほうが、働きやすいし、働く気にもなるんじゃないかと。

 マイナスを埋めさせる、ってことは、「おまえのここがマイナスなんだ」と突きつけることでもある。
 そう言われていい気分のする者はいない。
 たとえば、ものすごく好きな仕事についていて、好きな職場なら、そう言われても「だったら」と奮起するかもしれない。けれど適当についているだけの職だったら、どうだろう。
 それよりは、今あるプラス部分を評価し、そこでもっと頑張ってもらえるよう働きかけるほうが、やる気になると思う。
 つまり「私にはこういう欠点はある。でもこういうところは優れている。だったら、どんどんその優れている部分を出していこう」という気にさせるってこと。
 マイナスを補ったって平均に届くかどうかってだけのことが多い。だいたい、やる気がないとか能力がないからマイナスになってるんだ。そう簡単にプラスに変化したりはしない。
 それより、育ちやすい芽、プラスに手間隙かけてやったほうが、実りは大きいし、なにより本人の意欲を刺激する。
 悪く言えば、おだててノせて、その気にさせるってことだ。
 けれど実際に能力のある人を評価しているのなら、そうまで悪い言葉で表現しなければならないようなことではない。

 数日前のザレゴトにもかぶるが、それは、子供に対してだって同じことじゃないかと思う。
 誰にだってできないことはある。人より劣るところはある。それは学力とか運動能力といった部分かもしれないし、もっと心による部分かもしれない。
 けれど、なにができなかろうが、それでその人の存在そのものが無価値だったりすることはない。
 たとえ、人を思いやることができない、というようなニンゲンテキな欠陥があるとしても、だ。


Made with Shibayan Diary