烏の足跡



2002年8月16日(金)

 YAHOO!オークションでちっと探し物をする。
 見つかったのはいいんだが……。

 ビデオ6巻を、2巻ずつ分けて出品してある。
 っつーことは、どれか2巻分競り落とし損ねたら、他の4巻を落としたってどうしようもない、ということだ。
 っつーことは、誰か友人とグルにでもなって、6巻全部に入札してくる人がいたら、どれか2巻分の値段だけ吊り上げていくことで、6巻全て手に入れたいという人は、それに応じなければならなくなる。

 うーん、どうしようかなぁ……。
 6巻そろって出品されていれば迷わず入札するんだけどなぁ……。



2002年8月17日(土)

 制限ページ論。

 あちこちのサイトにある、パス請求制ページ、隠しページについてなんだが。
 実際には、意味ないな、と思う。
 何故なら、パス制にしたとして、鍵を手に入れた人。隠したとして、見つけた人。あるいは場所を教えてほしいと言ってきて、教えられた人。入れるようになってしまえば、他のコーナーと大差なく、簡単に出入りできるようになるからだ。
 パスをもらおう、と決める瞬間や、ページを探している最中は、まだしも、今から入るのは特殊な場所だ、という意識を持ってやっている。
 だが、いったん出入りできるようになってしまえば、そういった意識は途端に希薄にはなってないだろうか?
 当たり前のように入り口へのポイントをクリックしたり、お気に入り登録してダイレクトで飛んだり、パスを打ち込んだり。

 それに、入ってくる段階でも、たいていはナメてかかってくる。
 私には、かなり厳重に注意したうえでしか提供しない、男塾の一本、『悦虐』という話があるが、あれくらい事細かに、何故フリー公開しないのかを説明してまで、ページに制限をかけている人を見たことがない。
 ヤオイものがある場所なら、「そういうものがあります、苦手なかたはご遠慮ください」程度だし、その度合いが強くても、「度合いが強い」とかかれているだけで、興味のある読み手なら、さして警戒もせずに踏み込んでしまう。
 だから、大した意味はない。
 
 かといって、一作増えるごとにパス変更、などとやっていたのでは、そんな手間をかけてまで読もうとはしてくれないだろう。
 どんな話でも、なにかその物語を見てほしい理由があるから、公開したいと思って、アップする。
 たとえばうちの場合それは、ヤオイ好きの人へのサービスであることもある。男性読者へのサービスもしたいと思う(実現してないが)。
 また、問い掛けたいことがあるから出すものもある。自分なりに模索してみた可能性や結果について、反応がくればいいと思うこともある。
 感じてほしいもの、伝えたいもの、なにかあればこそ、公開したいと思う。
 ただ、他の話とは違う、という意識でもって見てほしいから、「特殊だ」とした場所に解き放つくらいの気遣いはしているわけで。

 見てほしいから出しているのに、いちいちパスを請求したり、在り処を探したりしなければならないような、見る気を萎えさせるような仕掛けを作ったのでは、どうしようもない。
 「それでもいい、あんたの書いたものなら絶対に見る!」とまで思い入れてもらえるなら至上の光栄だが、そこまで魅力的な作家・イラストレーターなんてそうそういるものじゃないし、自分がそうだと自惚れるのもどうだか。
 最初の数本くらいはそうして見てもらえても、数が増えれば面倒がられるし、そういった「熱」が冷めた途端、忘れられる。
 そこまで面倒でなければ見てもらえて、そのおかげで贔屓にしていてもらえるかもしれないものを、な。

 だから、とりあえず形だけでも警告しておいて、それによって「自分の責任で覗いてよね」と読者に責任転嫁して、公開する。
 しかし困ったことに、見た読者が予想外の、あるいは予想以上のショックを受けることがあり、そうなると、警告があるにも関わらず読んだのは自分なんだから、と自分を納得させるのも、たやすくない。
 救いのない、ただ陰鬱な気分になるだけの話を、ただでさえ憂鬱な時に読んでしまったとか、思っていた以上にセクシュアルな部分が強かったとか、自分の好きなキャラがとんでもない扱われ方していたとか……。
 作者はそこで、「警告してあったんだから、見たおまえが悪い」と言いきってもべつに構いはしないんだが、本当にそう言い切れるかというと、そうじゃない。

 良識のある善良な管理人・作者なら、すまないと思うだろう。「警告したんだから」と思っても、それこそ読者と同じだ。それであっさりと納得はできまい。
 それに、そこまで大上段に「読んだおまえが悪い」と言い切るためには、それだけのことをしてなければならない。
 たとえばヤオイものだとして、性描写が過激だというなら、どれほどのものなのか。直接的で卑猥なのか、それとも行為そのものがマニアックだったりするのか。そこまであらかじめ教えておけば、「にも関わらず読んだのはそっちだろう」と言うことはできる。
 が、それをやると、内容についておおよそ分かってしまう。本編を見なくても、そのあらすじだけで嫌になる人だって出てくることになる。

 制限ページなんてものは、万一にも不愉快になった時、それを理性的に冷静に整理し、見てしまった自分と作り出した作者を寛大に許せるのでなければ、見ないでほしいと思う。
 まさに、精神的に未熟な人はお断り、という意味での「成年指定」。

 まあ、私はそれであっさりと見切りをつけてしまうのは、自分の無能と凡庸さを証明しているようで、嫌いだ。おお、なんとでも言ってくれ、どうせ変なプライドは高いし自惚れ屋だい!
 だがまあ、そのおかげで読者へのサービスが充実するなら、悪いことでもあるまいよ。

 塾の裏ページについてはアドレス請求制だし、現在、話が増える気配はまったくない(とうとう言い切るか……
 それに、『悦虐』については旧館のリストのほうに、くどいほど丁寧な警告文もある。
 今のところ、在り処を教えてほしいと言ってきたかたには、その警告文は読んでいるか、それでもなお見たいのか、他にどんな話があるかをメールで知らせた上で、「それでも」と言うかたにだけ、教えている。
 それだけの手間をかけてまで見たいと思う人にだけ、開放している。

 逆にPSOは、隠してもいなければパスも必要ない、フリー公開で、警告だけを入れている。
 これは、一つには読者(の一部)のキャラクターを使わせてもらっているから、あまりにとんでもないものは書けない、という制限があり、塾ほど強烈なものは生み出されない、という前提がある。
 そして、自分の持ちキャラ、あるいは身近で知っているキャラが動いている、となれば、マンガやアニメのキャラを見るのとは違った思い入れが出てくる。そして、ある作品をゲームのメーカーが管理している公式BBSで公開するまでは、お客さんはそのプレイヤーたちだけ、といっていいほど限られていた。つまり、制限したところで全員が見てしまうだろう、という無意味さがあった。
 ただ、今回ちょっとトラブルが起こってしまったので、対策は立てたし、実行するつもりでいる。

 まあ……公開する作品について、もっと慎重に検討してからアップするなり、公開をとりやめるなりすればいいんだが、「表現したい」と思うものを持つ者は、それを押しとどめることなんかできやしない。
 いや、全員が、とは言わないが、私は、そうなんだ。
 はっきり言って、読者やプレイヤーのことなんか一切考慮せず、思う存分、好きなように話を作り上げて、そいつをドカンとぶつけたい、という欲求を持っている。
 「作家」は読者がいてはじめて存在するものだから、読者を考慮せずには一流じゃないが、「芸術家」は違う。他人のことなんか考えもせず、純粋に自分の世界を構築し、それにより大衆に感動を与えられる者がそう呼ばれるんだ。
 そして私は、実際には「作家」(そう世間で承認された存在ではなくても、話を書き読者と関わる存在として、この言葉を使う)だが、本当は「芸術家」なんだろうと思う(世間で承認されてはいなくても、自分の意思の在り方がそうだという意味で)。

 私の巣の制限ページは、「作家」ではなく「芸術家」寄りの私が存在しうる場だ、と言えるかもしれない。
 無論、フリー部分にも、読者におもねることなく、存分に自己を表現した話は存在する。ただ、なにかはばかりがあれば、それは全て制限ページ内に入ってしまう。
 徹底的にドライに、性欲、征服欲、嗜虐傾向なんかを書いた(つもりの)『悦虐』、狂気と享楽と自己愛の宴を書いた『Party Party』(これも塾もの)、これなんかは、その代表だ。
 まして『Party Party』の続きにいたっては、少し前の日記に書いている、「作者自身が直視したくないような人間の姿」を書きたいと思い、書ける舞台であると感じているほどで。

 芸術家ってのは自分の構築した世界の「神」であり、その世界に入ってきて(つまり絵を見たり話を読んだり)、その世界が自分好みじゃないからと文句を言うようなヤカラに対して、あるゆる行動とることが許されている。それが「神」って立場だ。
 アワレな子羊の嘆願を聞いてやるも良し、完全にシカト決め込むも良し、ふざけんな誰に向かって文句つけてんだバカヤロウとぶっ殺すも良し。
 それが「神」ってものだ。

 私の場合、塾はパロディだから、「神」と名乗れるのは宮下先生であり、あのキャラクターたちはあくまでも先生の作品からお借りしているものだし、PSOにいたっては、身近な人からキャラクターを貸していただいているのだから、このエリアでは「神」=「絶対神」になることはできない。
 「生みの親」という「神」が存在するわけでね。あくまでも多神教の世界だ。
 だから、オリジナル作品でないかぎり、絶対神として振る舞うことはできないが、制限ページにおいては、「芸術家」としての度合いが強まっている作品もある、と了解していてほしい。
 読者への配慮が薄れているだけに、不愉快な思いをする確率も高くなっているが、取り繕わない私の世界が強烈に打ち出されている、(成功していれば)傑作(他の作品より傑出した出来であるという意味で)がある可能性も高い、と。

 うだうだ書いたが、この「Zaregoto」を読みつつ、うちの制限ページに立ち入ることのある人は、そのつもりでいてほしい。
 そしてまた、私は「作家」よりも「芸術家」的な姿勢でものを書いてしまう以上、それを自分の中にとどめておくことはできず、どうしても外の世界へと爆発炎上することになる。
 だからつまり。
 「作家」の態度を守れず「芸術家」気取りで、パロディであるという前提を振り切りかねないものを書くのはやめろ、と抗議されたって、聞けないっつーことだ。
 だから、うちの制限ページを覗くときには、普通の物語を読むときとは違う心構えでいてほしい。
 それは、「自分が望む物語がそこにあると思うから読むのではなく、RAVENというバカの世界がどんなものかを覗くために、ここにいる。その世界は必ずしも自分にとって好ましい世界ではないかもしれない」というものだ。
 フリー公開のページでは、読者を喜ばせ楽しませることを第一にしているから、「世界」はある程度、読者が好むだろう、と私が思ったように創造されているが、制限ページでは、そうでないことがある。
 そのことを、忘れないでほしい。



2002年8月18日(日)

 この巣の総合トップとルキズのとあるコンテンツから、管理人についての簡単なプロフィールに飛べるようになっている(内容一緒
 その「Personarity」のところに、自分の自覚している性格について簡単に書いている。

己が信ずる道をGO
守備範囲の広さには自信あり
けっこうお節介
挑まれると受けて立たずにはいられない
自称・色物げーにん

 これまで、こうなっていた。
 今回ここに、「転んでもただでは起きない」と追加した。

 いまさら気付いたが、そうなんだ。
 なんかまずいことやったり、あったりして転んだ場合、起きる時には必ずなんらかの、戒めとか結論とかを作り出す。そのうえ、そこから考えたことで、なにかオマケがつく。
 日記をずーっと読んできたようなかたは、こういえば「あ、そういやそうかも」と分かるんでないだろうか。

 自分で転んだにせよ、誰かに足を引っ掛けられたにせよ、転んでなにか痛い思いした以上、ただ立ち上がって埃払って、さてまた歩くか、とはいかない。
 マイナスは、なんらかのプラスで穴埋めせずにはいられないらしい。
 転ばぬ先の杖、とするための賢さが育ってくれるならいいんだが、たいていは理論武装の剣や盾のような気がするんだよなぁ……(自爆
 ……つまり私、RPGだと魔法使いや僧侶じゃなくて、戦士系なんだネ★(そういうことじゃない



2002年8月19日(月)

 盆が過ぎ、さすがに涼しくなってきた。
 今も、かなりいい風が入ってきている。
 ただ、「涼しい」し「心地良い」がいくぶん「肌寒い」とも思う。
 ……そろそろ秋なんだな……。



2002年8月20日(火)

 デフラグする。
 詳細を表示させ、その画面を見てる。
 なんだか、膨大な量の本を整理しようと悪戦苦闘する、書庫管理人のような気がしてきてしまう。
 一冊ずつチマチマと動かすときもあれば、20冊ほどまとめてがばっと移動させることもある。

 最初の20%くらいまでは、本の量が多すぎて、隙間がほとんど見つからない状態で、1〜数冊くらいずつ、こまめに動かしていたのが、中盤に入るとまとまった隙間も生まれてきて、全集をまるごと移動、ということを繰り返す。
 しかし後半に進むにつれ、今度は隙間が大きくなりすぎて、残りの本を取りに行くのに苦労しているようだ。そして最後の最後は、またちまちまと一冊ずつ。

 ……約45分、ずーっと見てました(←バカ



2002年8月21日(水)

 好きなものについて勝手に語る・1(音楽・小説編)

・シセル=シルシェブー
 ノルウェー出身のシンガー。世界に女性ボーカリストは数多存在すれど、私にとって、一番透明感があり、声そのものが一番美しいと感じられるのがこの人。
 シンガーとしては、あまり歌に感情を感じられないから、「すげーなー」というのではないけれど、とにかく声が、声が!

・池波正太郎
 この人の書く江戸時代を舞台にした連作時代小説というのは、根底に、江戸の人々の人情が流れている。恩義ある人に対して心から「この人のためになら」と尽くすことのできるそういった心は、はたして現代にあるだろうか。
 『剣客商売』の秋山小兵衛には、彼が世話を焼いたかつての弟子というのが大勢いたり、今現在面倒を見てやろうとする者がいたりする。小兵衛のそういった「親心」に近いような親身な態度があればこそだろうが、周囲の人々は、「先生のためなら」と快く頼みをきいたり、動き出す。
 『鬼平』では彼の部下や密偵たちがそうだし、『梅安』では彦次郎という友人がそんな立場だ。
 「この人の恩義には応えなければ」と思える義理堅い心も、誰かにそう思わせるような、打算的ではない助力や心も、現代の現実では感じられたこともないから(他人事としてでも)、私は池波氏の話が好きなのかもしれない。

・『敵は海賊』
 ありきたりではないキャラクターが面白い。天才的な射撃の腕を持つ、対海賊課の一級刑事ラウル。黒猫型異星人でラウルのパートナーであるアプロ。彼等を乗せる戦闘機でありながら一個の人格を持つラジェンドラ。この三人に加え、彼等の宿敵である宇宙最強の海賊ヨウメイ、彼の乗る、やはり人格を備えた空母カーリー。
 全員、ありきたりな設定ではない。
 読んでもらうしか説明のしようがないくらい、当たり前のSFの主人公のアーキタイプを外れている。
 そしてそこに、この物語にしかない独特の世界が生まれる。

・Raphael「秋風の狂詩曲」
 たぶんもう解散してるんだと思うけど、ビジュアル系のバンドだね。別にメンバーのことなんて知らないけど、ボーカルの声が好みだった。声質が、というのではなく、喉が開いていることを感じさせるような、余裕のある声で、これからボーカリストとして場数を踏んでいけば、いろんなことができる可能性を感じられた。
 しかし、の肝心なボーカリストが死んだかなんかで、活動休止せざるをえなくなってんだったはず。
 中でも大好きなのが「秋風〜」。



2002年8月22日(木)

 好きなものについて勝手に語る・2(ゲーム編)

・CYBER DOLL(セガサターン)
 キャラクターと敵デザインが、私の好きな韮沢靖氏だ、ということで注目しつつも発売日頃には忘れ去り、半年遅れくらいで、中古で手に入れたRPG。
 画面は「ファミコンかい!?」というくらいチャチだが、改良の余地はあれどなかなか面白い戦闘システム、サイバーパンクな世界、変に壮大にもならずきっちりとまとめられ表現されたテーマ、それを語るためのストーリー、と、私にとっては屈指の面白さ。
 もし、これのシステムや世界観をそのまま踏襲した「2」が出るというなら、たとえX箱でも買ってやるぞという意気込みや良し(ぉぃ
 世界にしろなんにしろ、好みは大きく分かれると思うが。

・Zill O'll(プレイステーション)
 一本のゲームを半年も触ったはじめてのゲーム。自由度の高いRPGで、戦闘のアクションやエフェクトをすっ飛ばせるのも爽快だった。
 ストーリーは硬派で秀逸。ただ、容量や開発予算、期間の関係だろうとは思うが、完全に消化されきっているとは思えないストーリー部分もある。
 一つの物事、たとえば戦争や人物を、違う立場から見たることで様々に分かってくるものも多く、ついつい繰り返しやってしまった、とも言える。なにが善でなにが悪か、という、勧善懲悪の逆、善悪の相対性をうまく表現したゲームだと思う。
 これに、もう少しコレクション性のあるアイテムとか、後半のストーリーの分岐とかがあれば、もっと長い時間やりこんだと思われる。
 キャラデザが末弥純氏だったというのも、気に入った要素の一つかもしれない。その辺のアニメちっくなイラストレーターとかがデザインしてたら、見向きもしなかったかも。

・WILD ARMS1(プレイステーション)
 「2」は、やたら増えたキャラクターと、一つのダンジョンでしか使わないという無意味なグッズ、言葉でテーマを説明しようとする安直さ、ゲーム序盤で「黒幕」があっさり見えてしまうひねりのないストーリー、「〜〜〜だッ!」とやたらに繰り返される「ッ!」が鬱陶しくて、そういった面では「1」以下。ただ、システムは面白くなったし、トカ&ゲーは好きだが。
 ゲームシステムの面では玄人の仕事だが、ストーリーなど目に見える部分の素人くささが目立つ、と言ってもいいか、「2」。(言いたい放題だな
 しかし、西部劇をモチーフにした音楽が秀逸。特に「1」のオープニングデモの曲が好き。
 「3」はPS2なんでやってない。
 しかし、それだけこき下ろした「2」も、つい三度ほどクリアしてるんだから、一回こっきりしかやらないとか、クリアすらしていないゲームに比べたら、格段に面白いともいえる。まあ、クリアするのが手軽だから、という説もあるが……。

・Phantasy Star Online(ドリームキャスト・ゲームキューブ)
 言うまでもない。
 このままでは丸二年間やり通し、という恐ろしいことさえ起こりそうな気配。
 欧米でのみメジャーだったネットゲームを、見事に日本で作り出した、と思う。



2002年8月23日(金)

 面白い小説というものについて。

 自分のもの読み返しても思うことなんだが。
 はっきり言って、作者が必要以上にのめりこんでいる話は、どうしても一定の水準を越えられない、と思う。
 徹底的にドライかつクールに、世界とキャラを突き放して操る、あるいは完全にキャラクターたちの言動に任せる、というほうが、いい作品になりやすい。
 自分自身の書いたものへの批判でもあるんだが、作者の「こいつが好きだ〜」というような感情が物語の中に滲み出てしまっていると、どうしても独り善がりな気配が漂ってしまう。
 もちろん、それで面白くないということはない。
 そういった部分で共感を呼ぶことで、初めて面白いと思ってもらえることもある。
 が、それはつまり、「純粋に文章、ストーリーを問えば大したものでもないものを、シンパシーという手段によって面白く思わせている」に過ぎない。

 はっきりと言い切れば、この巣全体にある話で、私自身が「よし」と自信を持って誰にでも見せられるのは2.5点しかない。
 それ以外のものは、「登場するキャラに感情移入していなければ微苦笑を誘うだけの独り善がりな物語」だ。

 もちろん、それでもいいから、公開している。
 こういう、プロの商品として提示するわけではない、趣味と楽しみを共有する場でのことなんだから、「好きなんだよぉう」という気持ちを、分かり合える人と共有する、それで立派に意義がある。
 ただ、純粋に物語としてみた場合、本当に面白いものは、完全に加工され、作者の気配はそこに漂ってはいないと思うんだな。

 これがオリジナルの話に関すると、ただ作者が表に出ていなければいい、ともいえなくなるんだが、自分のものに関わらず、人様の書かれたものでも、私が本当に純粋に面白いと思う作品は、「その物語を読むだけで作者のそのキャラへの好意や執着が分かる」ものでは、絶対にない。
 だから、いまだかつてパロディで、そのレベルを超えている話を読んだことは、ほとんどない。つか、webでは一度もない。
 パロディ、という、自分が「そのキャラ」を好きだから書いている話で、それだけ冷静・冷徹に書くということ自体、ハナから矛盾しているような気もするから、そんなものを期待してパロディ読むことなんてないけどサ。

 ま、もし「クォリティ」を追及して話を完成させたいと思うなら、愛さずに生かしたキャラの言動を、先入観や勝手な解釈を入れずに記述するか、さもなければ徹底的に理性的に全ての駒を操るのがいいんでないか、と思うわけです、はい。



2002年8月24日(土)

 まる24時間中に、5本の映画(ビデオ)を見る。
 「ラッシュアワー2」「ブレードランナー(最終版)」「プリシラ」「龍拳」「ムトゥ 踊るマハラジャ」。

 ラッシュアワーは、1のほうが面白かった気がするなぁ。2はなんとなく、山場に向かって盛り上がっていく、そのダイナミズムが感じられなかった。ジャッキー・チェンとクリス・タッカーのアクションなんかは面白かったけどさ。あと、久々にジョン・ローンを見て満足。しかし……悪役にするにはあんま迫力ない人だよネ……。演技がどうの、っていう以前に、優男なんだもぬ。
 1にもあった、最後のNG集は、今回もなかなか楽しかったヨ。つい、役名じゃなく「ジャッキー」だの「クリス」だの、本名(芸名)で呼んでしまうのは、なんだか仲良しっぽくていい感じ。たまに楽屋ネタで、「撮影場は和気藹々として……」とかいう記事が載ってても、現場の休み時間の写真、ものすげーみんなして仏頂面だったりすると、「ウソつけ」とか思っちまうが。とある映画は、大御所の役者が(性格悪いことでけっこう有名らしいが)、若手の準主役級の役者を、「Hey You」でしか呼ばなかったとか……。あな恐ろしや。

 プレードランナーは「世界が好き〜」という偏見を持ってみてるから、それだけで面白いと思ってしまうんだが、ああ、やっぱしタイレル社長殺す時のルトガー・ハウアーはかっこいい……。怒りなのか哀しみなのか分からない、遣る瀬無さの混じった、怒りに歪んだ形相。基本的には淡々としたキャラクターだけに、そういうところとか、殺されたプリスに触れてるシーンとか、最後にデッカード(ハリソン・フォード)助けて語る台詞とかが切ないワ。死闘のラストシーンで、雨の降り止まない灰色の町に覗いた空はとても綺麗デシタ。ガフ(役者知らん)の折り紙が最後の最後で生きてくる、あの演出は巧みだし。
 レプリカント、というネーミング、アクションをラストに持ってきた映画らしい見せ場、デッカードから妻を排除してシンプルにした構成など、映画の良いところもあるが、原作にも良いところがある。なにせ映画では、「なにをもって人間とレプリカントを見分けているか、テストの意義は」ということが説明されてないから、その辺、曖昧なままになるしな。世界観を壊さないよう、台詞で自然に説明入れられれば、もっと分かりやすくなったと思うけどなぁ。

 プリシラは前々から見よう見ようと思いつつ、つい時期を逃していたもの。淡々とした中で起こるささいな出来事が、最終的にゆっくりと収束していくような感じで、なかなか面白かった。ドラァグたち三人の衣装も突き抜けてていいし。
 しかしまあ、私の好みはアクション系だから、あんまりあれこれと、「こうだったらな」とか「ここがいい」とかは思わないんだったりして。

 龍拳は、もう「ジャッキー若ェ!」の一言に尽きる。毎度敵役で出てくるおっちゃん(名前知らん)が、今回は序盤で改心していい人になってしまうところも、けっこう好きな作品だったりする。ただ、切り落とした足、もっとはっきりと、ナニか分かるように見せてほしいよなぁ……。つい巻き戻して確認しちまうんだ、あのシーン。
 最後のほうで、母親を失った本気で怒った主人公が、一気に攻勢に出て相手を一人、めちゃくちゃに攻撃するシーン、ありゃあたぶん、「逆鱗に触れた」という瞬間を表現してるんじゃないかと思うんだが、あんまり「龍拳」らしいところがないのが残念。カンフーに詳しい人なら、構えとかが「いかにも龍拳だ」とか分かるのかもしれないけど。そういう意味では「笑拳」とか「蛇鶴八拳」「酔拳」なんかのほうが好きだ。

 ムトゥは、個人的には音楽。サントラ欲しい。ジャッキーばりのアクションシーンがあるとは思ってなかったから意外だったけど、ジャッキーもの2本見たあとだったから、ちょっと飽きた。韻を踏んだ歌が……いいなぁ、やっぱり……。サントラ買おうかなぁ。
 これの主役ムトゥをやってるラジャニって俳優、インドじゃ確か、大スターだったと思ったけど、ダンスは上手いし、親しみの持てる男前(インドの)だし、たしかにかっこいい。ただ、演出や監督のせいもあると思うけど、演技そのものは、どうだかなぁ、という感じ。どっちかっつって、スクリーンより舞台のほうが似合う役者だと思ったりして。
 ランガ、パドミニ、ラティの三美人役は、文句なく可愛くて綺麗デシタ。個人的にはパドミニが一番好きだなぁ……(死



2002年8月25日(日)

 少し前の日記で、うちの母親が作る料理の中で、カレーだけはどうにも美味いと思えん、と書いた。
 それだけでは不公平なので、これは好きだ、とついついナベ一つ分食べかねないものについても書こう。

 とは言え、それを正式になんと呼ぶのかは知らない。
 糸コンニャクと牛肉と、ネギ、ニンジンの細切りなんかを、甘くどく……地方によっては「甘からく」と言わないと通じないか? 要するに、醤油と味醂、砂糖なんかで調味して、煮付けたものだ。
 これがンまい。
 気が付けばナベの中身がごっそり減っている、ということになりかねないくらい、好きだ。

 私はあまり菜食タイプではないし、和食よりも洋食党だから、こういう煮物の類は、嫌いでなくともさほど好きでもないのだが、これだけは別格だ。
 こういうもののダシを飲むのはあまり体に良くないというか、そんなこと気にしやしなくても、好きじゃないんだが、これだけは別だ。
 個人で味覚の差はあるから、誰にとっても美味いとは言わんが、もし「うちのかーちゃんの自慢料理」とかいうのを一つ人に勧めてみろと言われたら、これを挙げるだろう。
 それくらい、好きなのである。



2002年8月26日(月)

 またも料理の話。

 地方によって、薄味だったり濃い目だったり、味付けの傾向はいろいろと変化する。
 私は少し極端な地方(ものすごく南だとか北だとか、あるいは山奥だとか海際だとか)に行くと、その土地の、その町で作られている醤油を試してみたくなる。

 醤油の味というのは日本人の口に馴染んでいて、どんな西洋料理でも、醤油を少し加えるだけで、日本人好みの味に近くなる、という(そこまでいくとは誇張だろうが
 しかし地方どころか、店によってもかなり味が違っていたりする。
 今現在、うちで使っているのは、ご飯にかけ回して食べれば、それだけで炊き込みご飯のような味になる、出汁に近い薄味の醤油だ。これは、スーパーでは売っていない。酒屋だかなんだかしらないが、店の隣の工場で作って販売する、というローカルな醤油だ。

 昔、四国の友人が実家から送ってくれた醤油は、味も薄ければ色も薄い、さらに出汁っぽい醤油だった。これはもう、そのまま舐めても(ある程度は)平気で美味いと思えるもので、一時期、お湯だけを沸かして、なんの出汁もとらず調味料も入れずにただその醤油を適量入れ、あとは好みでネギだの卵だの入れた澄まし汁にして飲んでいた。
 鹿島の友人が送ってくれた醤油は濃い口だがそうからくはなかったなぁ。



2002年8月27日(火)

 好きなものについて勝手に語る・3(その他)

・第三舞台
 劇団であるが、今もって活動しているかどうかは不明(ぉぃ
 そんなんでよく好きだと言えるもんだ、というツッコミはさておき、バカバカしいような笑いと大声、ダンスと大騒ぎのうちに語られるテーマのシリアスさなんかが好きだった。
 高校時代、別の学校のだが、演劇部にいた友人(その部、かもしれないが)がこの劇団にハマったおかげで知ることになった。演劇部が用意した脚本のコピーを一部ずつ分けてもらったんだが、それはいまだに手元にある。
 この劇団出身で、茶の間で比較的よく見る顔といえば、勝村さん(正露丸のCM)と筧さん(商品名まで見てないが、息洗浄系アイテムのCMに出てるの、彼でないかな。似てるだけで別の若手かな)。
 この劇団のプロモーションビデオみたいなのを持ってるが、今でもたまに見る時がある。

・俺の塩
 インスタントの塩焼きそば。夏の定番。発売された当時は、とてもじゃないが美味そうとは思わなかったんだが、一度食べたら病みつきになった。
 夏しか売ってないのが寂しい……。

・猫
 6月前半の日記でさんざんほざいている。



2002年8月28日(水)

 昨日分の日記から流れて。
 演劇部にいたという友人だが、高校三年間、演劇に真剣に取り組んでいたんだと思う。ジャズダンスを習ったりしていたのも、その一環だったんでないだろうかと思ってる。いや、たぶんそうなんだと当時も今も思っているが、本人が当時を振り返れば、どう思うかは分からないからね。「たぶん」と言うんだが。
 高校卒業すると同時に東京に出て、この時もやはり、夢見ていたのは演劇の世界だったんだろう。

 しかし、結局その人は演劇の道には進まなかった。
 今は美容関係の仕事をしていて、それもよく似合っていると私は思うが、他人の無責任さ全開で言えば、もったいないな、というような気もしている。
 好きだと思い、その道に進もうと試みたからこそ見えたものがあったり、あるいは日々の生活の中で自分自身の気持ちそのものが変わっていったりして、ごく自然に違う道を選んだのかもしれないし、「挫折」とかなんとか、なにかそういう劇的な出来事があったのかもしれない。
 そんなことについて、本人が語ろうともしないのに尋ねるつもりはないから、私は詳しいことは知らない。
 ただ、高校の演劇コンクールの舞台を見たことや、地区大会(だと思う)で優勝した時のことなんかを思い出すと、本当に楽しそうだったし、そのことに一途だったし……とまあ、他人の身勝手な感傷なんだけどさ。

 「才能とは夢を見続ける力のことですよ」という台詞が、昨日分の日記に書いた、第三舞台の「BE HERE NOW」という脚本の中にある。
 主宰であり演出家である鴻上氏が、この言葉にどれほどの「真実」を感じて台詞として作ったのかは知らない。私は、この言葉にそのまま「まったくそうだよなぁ」と頷くわけではない。
 けれど、夢を見続ける力そのものが才能の一つなんじゃないか、とは思う。そして、よほど運に恵まれていないかぎり、夢を見続けることは、才能を世間的に評価されるための第一歩なのかもしれない。もちろん、行動力があってなんぼだが。

 諦めたのか、見切りをつけたのか、それとも心が離れたのか。
 知りたいとは思うが、訊こうとは思わない。
 たしかなのは、その人は今、ちゃんとした仕事についてしっかりと働き、家庭も持っているということと、幸せなら無事にそのままずっと続けばいいな、と思うということ、それだけだ。



2002年8月29日(木)

 どうでもいい話。

 私はパジャマというものを持っていない。
 寝る時も、「そのまま外に出られる格好」でいる。
 これは真夏でも冬でも変化ない。
 宅配便のおいちゃんがやってきたりした時に、着替えるために待たせる、なんてことはまずないのである。
 まあ、寝癖をどうにかしようとすれば多少は時間かかるが……。



2002年8月30日(金)

 作文技術その他について。
 またしても、べつに役に立たない物語の書き方話。

 作者には意図があり、その意図を表現するために、いろいろな技術を用いることもある。
 技術とまではいかずとも、感覚的に「こうしたい」とか、「こうしてしまう」ということもある。
 そういったものは、その作者の個性というヤツだから、どれは間違い、ということはない。

 ただ、正しいとされる日本語を、知ってて崩しているか、知らずにめちゃくちゃにしているかは、大きな違いだ。
 たとえば、「もし〜〜ならば」というのはワンセットで使うべきもので、「もし」だけがあって「ならば」がないのは、文章的には間違いということになる。ワードなんかを使ってると、そういうところにチェックが入るから(設定にもよるが)すぐに分かると思う。
 そういう「定型」をチェックされて、「いや、それでもここはあえてそうしたい」と思うかどうか、ということだね。

 また、助詞も「が」と「の」は主格表現としてどちらも使えるが、「その場合どちらを使うか」をちゃんと考えているのといないのとでは、差が生まれる。
 「彼が手に入れた物」「彼の手に入れた物」、文法的には異なっているんだが
(「彼が手に入れた」とは言えるが「彼が物」ではおかしい。「彼の手に入れた」だけでは完結しないが、「彼の物」ならば完結する、といえば、違いも分かりやすいだろう)、表現したいことそのものを書き表すためには、どちらもおかしくはない。ではどちらを使うか。このことをちゃんと考えて選んでいるかどうか。
 文法に従うならば、その場面で重点が置かれているのは「手に入れた」という行動のほうなのか、「物」という物体のほうなのか、とか考えられる。たぶん、舞台やドラマの世界なら、この二つの表現はアクセントの置き方も違うはずだ。
 だがもっと感覚的に、たとえば、「だが」がこの文の前についているとして、「だが、彼が手に入れた物は偽物だった」では近い位置で「が」が連続するから、「だが、彼の手に入れた物は偽物だった」にしよう、とか、そういう「音」にこだわって使い分けということも可能なのが物語の世界だ。
 こんな使い分けも作者の感覚で構わないが、用はそこまで注意が行き届いているかどうか、ということだ。

 1ページ内(あるいはそれと同程度の文章量中)に同じ単語が複数出てくるのも、あまり賢い文章とは言えない。
 名詞はともかく、「だが」がやたらに頻出するとか、「そして彼は……。」と「……。」で終わる文があちこちにあるとか。

 気をつけようと思えば、接続詞(だが、やがて、そして、また、なお、けれどもetc...)の重複はもちろん、それそのものの有無にも目は配れる。
 「そして彼がそこで見たものは」という文に、本当に「そして」が必要かどうか。なくても意味が通じるのではないか。「やがて夜が明けた」の「やがて」はなくても時間の経過がちゃんと感じてもらえるならば、それは必要ではない接続詞になる。

 人名を出すか「彼」「彼女」といった代名詞を出すかもポイントだ。また、それを省くかどうかも。
 人名は出さない、として書いている文章でないなら、人名と代名詞は必ず出てくることになるが、複数の登場人物が動いているシーンで代名詞ばかりでは読み手に不親切だし、かといって「太郎は居間に向かった。そこで太郎は新聞をとると」というように名前が繰り返されるのも今一つだ。

 読点(、)の置き方も、ちゃんと読み手のことを考えて、文章の意味やまとまりを考えて置いているかどうか。よく引き合いにだされることだが、読点の位置によっては、意味がまったく違ってしまうこともある。
 それだけではなく、やたら読点がさしはさまれる文章は、いったん気になりだすと、ブツ切れで非常に読みづらい。ほとんどないまま句点に辿り着くのも、その文全体を頭に入れてからでないと構成が掴みづらく、不親切だ。

 他にもいろいろとあると思うが、今パッと思いつくだけでも「その人がアマチュアである以上、気にかけて書くべきだとは言わないが、気にかけたほうが文章がより良くなると思われるもの」はこれだけある。
 こういうものは、勢いで書いているうちにはなかなか気付かないものだ。
 そして、自分の書いたものを客観的に見ないと分からないことでもある。
 一番いいのは他人に率直な批評をしてもらうことだが、それは、よほど腹を割ってなんでも話し合え、かつ、「ここはどうかな」とケチをつけられても腹の立たない相手でなければ、かなうことじゃない。

 書き方や、創作に取り組む姿勢はいろいろあるし、どうでもいいと思うが、私は、自分の書いた話を何度も読み返す。それは、明らかな誤脱字の数が半端じゃないというのもあるが(ぉぃ)、そういった(上記)部分や、自分には理解できるが他人が理解するには不親切な記述はないかとかをチェックしなおすためでもある。
 一日過ぎて読み直すと、はじめて見えてくるミスもあるし。
 まあ、そんなことは、書く人それぞれの好きにすればいいことだけど、「なんでこここうなってるの?」と訊かれた時、「なんとなくどうしてもそうしたい。たとえばこうもできるけど、こうすると違和感を感じる」とか「これこれこういう意図がある」と答えられないところがあまりにも多いのでは(注:あらかじめそのつもりで書いたわけではなくても、指摘されて気付き「こんな意図がある」と説明できるだけでもいい)、テキトーに書いていることになってしまう。
 もちろん、テキトーに書き流すのだって快感なんだし、それでいいんだけどさ。



2002年8月31日(土)

 こと音楽に関しては、浪曲と流行の曲以外ならなんでも聴く。クラシックから歌謡曲から演歌から、ロック、ポップス、民族音楽、映画音楽、ヒップホップ、テクノ、イージーリスニング……とまあ、詳しく掘り下げたりはしないまでも、ただジャンルだけにこだわって、これは聴く、あれは聴かない、とえり好みはしない。
 しかしあえてどのジャンルが好きか、と言われると、メタル系になる。スラッシュメタルやデスメタルも嫌いではないが、一番の好みはメロディアスな部分とパワフルな部分を併せ持ったものだ。

 ここ数年来のお気に入りはRapsody。イタリアのメタルバンドだが、ジャンルはシンフォニックメタルといったところで、クラシック要素、分かりやすくいえばストリングスなどを大幅に取り込んでいる。
 五年ほどかけて、一つのファンタジックな「物語」を五枚のアルバムにして作り出しているのだが、曲はメタル、時折クラシカル、歌詞は物語。
 英語がそのまま理解できれば(日本語に訳さずに、という意味)もっと面白いんだろうなぁ、と思いつつ、今日(現在30日ナリ)やっと買ってこれた5枚目、完結編。

 ちなみに今日は、ANGRAとbondのアルバムも買ってきてたりして。
 どうせドマイナーだが、ANGRAはブラジルのヘヴィメタルバンド。ややメタルに近いが、こちらもデビュー当時からメロディラインを大事にした楽曲を作りつづけていて、ひそかに全てのアルバムをチェックしている(ミニアルバムやライブ盤除く)。
 メンバーのうち三人が脱退するなどして(それもボーカル含む)どうなることかと危ぶんだこともあったが、新ボーカルになって二枚目のアルバムが今日買ってきたもの。
 前作REBIRTHは少し統一感に欠けていたような気がしたが、タイトルでもある「REBIRTH」はかなりお気に入りの曲になった。今作はどうなんだろう、と楽しみにしていた。今回のアルバムはミニアルバムに近い感じで(それでも8曲収録)新曲の他、アレンジ、カバー曲も入っている。相変わらず、新ボーカルのエドゥのほうが、バラードはうまい。アコギ(アコースティックギター)とうまく合う声だ。
 楽曲の重さや厚みに比べて、声がどうにも薄いのが気になるところ。もう少し太い声のほうが合うんでないかなぁ。のびもいいし響きもいいし情感もある、バラードにはしっくりくるんだが……。まあ、ルックスもどっちかといえばキレイなにーちゃん系で、あんまりくどい顔もしてないし、無骨でもない。声と落差のない容貌だしな。
 そういや、前代ボーカルもこういうタイプだったっけな。

 bondは女性四人のヴァイオリンとビオラによるカルテット。けっこうダイナミックな演奏で、クラシックとポップの融合っぽいことをやってくれる。
 今回のミニアルバムはヴィヴァルディの「冬」を使った曲があるということで、ずっと目をつけていた。音楽ゲーム・ビートマニアUDX 5th atyleで「V」というタイトルでアレンジされ、難易度と楽曲の良さで人気を博した原曲。オリジナルのクラシックver.で聴いても、なかなか好きな曲。それをbondがどうアレンジしたのか、気になって仕方なかったのだ。
 こちらは……ビーマニ版のほうがパワーもあればなんとない悲壮感や決意みたいなものも漂っていたりして私的には好みだが、bondのものも悪くはない。ただ、決め手に欠けるような感じ。

 当分はこの三枚がBGMになりそうな気配である。


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