烏の足跡



2002年8月1日(木)

1.
 去年の今ごろは、毎日のように塾関係の更新をしていた。
 今年はどうやらPSO。7月中の更新履歴を見て、後半期はほぽ毎日、なんらかの更新をしていることに呆れた。

 そういうと、ヒット数がのびる方法、とかいう本を見たことがあるんだが、サイトの内容はさておき、サイトの名前(検索で頭のほうに出てきやすいこと)などの他に「更新が頻繁であること」というのがあった。
 当たり前だ。
 週に一度くらいしか更新されない、と分かっていれば、週に一度来るだけでいい。
 毎日なにかあると思えば、ついついと立ち寄る気にもなる。

 移転以来、各ジャンルごとにその中で全て片付けられるようにしたものの、この「Zaregoto」のせいか、総合トップのカウンターも着実に回っていやがる(汗
 たしかに、これだけはほぼ毎日確実に更新されるから、見にきている人がいればついついとカウンターの数字が動いてしまうのは当たり前なんだが……。

2.
 最近はじめたこと。
 アロマセラピーとやら。 
 といっても、効果をいろいろと考えて、ということじゃない。
 もともとお香とか持ってるし、香水のミニボトル集めてみたりもしているし、「良い香」は好きなわけで。
 書店で「アロマセラピー入門キット」みたいなものを売っていて、それに、オイル一本と、蝋燭や受け皿なんかがセットになったスタンドセットがついていて、「お手軽そう」と思って買ってしまったのがはじまり。
 受け皿に水を入れて、オイルを数的垂らして、下に蝋燭をセットして点火。暖められたオイルが揮発して、香が広がる、という仕掛けである。

 近所の雑貨屋にオイルを何種類か売っていたのもあって、ついついそこで交換用の蝋燭とか、面白そうなオイルとか買ってきてしまった今日。
 日中のクソ暑いうえに湿度の高い時にやってもさして楽しくないんだが、夜になってだいぶ涼しくなってから、涼しげな香のものを選んで実験する予定。



2002年8月2日(金)

 ゲームボーイアドバンスの「悪魔城ドラキュラ」を買ってきた。
 ファミコン時代の、セーブなしでとにかくラスボスのドラキュラ倒すところまでやるしかなかったものから比べれば、「月下の夜想曲」以来、ずいぶんと難易度が下がったと思う。
 けれど、アクションゲームにぎりぎりまで神経使うのは好きじゃない私としては、「時間さえかければレベルアップして強くなる→進めるようになる」というRPG要素はかなり気楽でいい。

 GBAの「白夜の協奏曲」は、もうサブタイトルからして「月下」のシステムを引き継いでいると分かる。
 「月下」の主役はベルモンド家の者ではなく、ドラキュラ伯爵と人間である母との間に生まれたハーフ、というところから、使用武器は剣系・ナイフ系だった。
 ゲストキャラのようにベルモンド家のキャラもいて、そいつでもプレイ可能だというオマケつきで、なかなか楽しかった。
 ただ、必殺技をコマンドで出すのがPSのパッドでは難しく、かといってジョイコンを使うと通常操作がやりづらい……と苦労した覚えが。
 今回の「白夜」はそのへんも手軽になっているし、サブウェポンと魔導書との組み合わせで30種類もある。使って楽に進むもよし、使わずに鞭だけを頼りに行くもよし。

 今回の主役はジュスト=ベルモンド。鞭というよりは鎖に思えるエフェクトも相変わらずだ。
 システム的にはほぼ「月下」を踏襲し、進んでいくごとにいろいろとできることが増え、行ける場所も増えてくる仕組み。
 何度も同じところを歩くのは面倒ではあるが、その間も敵は出てくるし、つまりは経験値かせぎということで。
 思いがけずレベルアップした時は、なかなかに嬉しい。

 携帯ゲーム機でここまで表現すれば大したものだ。
 けれどやはり、大型ハードには適わない。「月下」のコレクションしがいのある武器の数にはとても及ぶところではない。
 けれど、「悪魔城」シリーズはどうやらニンテンドーのハードで作っていくつもりらしいし(64でも一本出てる)、もしかするとゲームキューブで新作が出ることもあるのかな、とちと期待してみたりする。
 その時には「月下」のように、また剣をメインに戦っていくキャラを使えるようになると面白いかなー、と思う。ベルモンド家の者が主役だと、どうしても鞭だけが武器になるから。
 「白夜」ではその鞭が6種類ほどカスタムできるが、やはり物足りないのである。
 「月下」の主役アルカードと、再びベルモンドが手を組み、二人を交代で操りながら……というのも、いいかな、と思ったりして。



2002年8月3日(土)

 幸いにして日差しがいくらか弱かったので、「今日こそ」と思ってフラフラと外出。目的は、髪を切りたい、ということ。
 しかし行ってみれば臨時休業で、仕方なく、近くにあるイタ飯屋に入る。

 このD店は私の古い友人……というと大袈裟だが、小学生の頃から付き合いのある友達の、叔父さんがやっている軽食店で、初めて行ったのは十年以上前になる。
 一時期ここでアルバイトをさせてもらっていたこともあった。
 私はここのパスタが大好きで、これがもっと近いところにあるのなら、週に一度の割合ででも食べに行きたいところだ。

 パスタ好きだから、何処にいてもちょっとした店を見つけると入ってみるし、喫茶店などでもメニューにあれば、つい頼んでしまう。
 それであちこち「気に入りの店」は見つけてきた。

 大学時代にいたところだと、駅前にあった喫茶店Pの和風のパスタ。これは特にどう凝った味がするというのでもなく、家庭でも作れそうなシンプルなものなのだが、真似しようとしてもなかなかうまくいかない。パスタをゆでた後、炒めてあるのも私好みで、ここはその近くでバイトしていた時には、毎週のように通っていた。
 同じく駅前だと、少し本格的なイタリア料理店で、M店も美味い店だった。ただし値段は安くないし、一人でフラリと気軽に入る、というタイプの店ではない。ここは自家製の食前酒が非常に飲みやすく、二度ほど、瓶に詰めてもらって買って帰ったこともある。ここは、金欠が持病になると自然に足が遠のいてしまった。
 それから、アパートから近かったK店。ここはママと親しくなって、一人でのんびりと、忙しくない時ならば何時間いても気兼ねしなくていいという雰囲気と、家庭的でボリュームのあるパスタが好きだった。「んー、今日はいつもので」と頼める心地良さは、なかなか他の店にはない。残念ながらここは、ママのお母さんがご病気で、看病に専念されてるということで店を閉めてしまった。

 他にも、「出先」で、ここに来たらこの店に寄ろう、という気に入りの店はあるが、そういったところは足しげく通うところではないので、割愛する。

 イタ飯のチェーン店なんかもいくつかあるが、そういったところで出すものは、どんなに本格的なように「出して」あっても、味は大したことがない。
 実際、個人の「よし」と思う味というものは、個人経営の店にあることのほうが圧倒的に多い。
 冒頭で話題にしたD店だが、ここは基本的に夫婦二人で動かしている店で、アルバイトを雇うくらいのことはしていたが(今はしらない)、味を作るのも店を作るのも、マスターとママの二人だけの仕事だ。
 それで、十年前から今までずっと「美味い」と思って食べることができる。けっこう貴重なことなんじゃないかな、と思う。

 久しぶりの帰郷で、街の様子も店もすっかり変わってしまっているが、狭い裏通りにあるD店が、昔と変わらずに開いていてくれることは、本当に嬉しい。
 今日はホワイトソースのイカ&ツナを食べてきた。バイトしていた時代にソースのレシピをちらりとくらいは聞いたことがあるし、マスターの姪、すなわち私の友達から少しのヒントを聞いたこともあるけれど、やはり材料の違いというものもあるのか、自分ではこんなふうには作れない。

 一人前のパスタを皿に盛り、それが見えなくなるくらいたっぷりとかけられたソース。食べた後で、「大盛りにしてもらえば良かったかなー」と毎度後悔するのだが、「美味い」と思って食べきるためには、腹八分目くらいがちょうどいい。
 ただ、どうやら体を壊してしまったらしく、マスターは不在だった。
 ママ一人では大変だろうし、なにより、一時期はバイトとしてお世話になり、迷惑もかけた知り合いのことだから、早くマスターには元気になってほしいと思わずにはいられない。



2002年8月4日(日)

 昨日のことだが、髪を切りたいと出かけた時、辿った道は堤防にある。
 春には何百本という桜が花をつける道で、市街にこれだけの桜が並ぶところというのは、全国でもかなり稀なんじゃないだろうか。
 A川を挟んで両脇に、ずーっと桜並木が続く。もちろんその向こうには町屋が立ち並ぶ。
 少し高い位置にある桜の枝は、そういった建物の二階の窓に触れるくらいにまで張り出している。

 無論ながら今は夏で、花はついていない。
 だが威勢良く茂った緑の葉が左右から道の上に重なり、日差しを遮っている。
 太陽の苦手な私にはなんともありがたい道であるし、なにより車も通らない。ふらふらと自転車でくぐっていく頭上からは、蝉時雨。
 木々の根元にはものすごい勢いで雑草が生い茂っているのだが、これもまた鮮やかな緑色で、「生きてんなー」という感じがする。
 幸いにして昨日はいくらかしのぎやすい気温と天候だったが、これが真夏日だと、草いきれも大したものになる。
 日光アレルギーになる前までは、そんな真夏にこの堤防を通ってサイクリングなどしたものである。

 桜はたしかに春のものだが、夏の桜並木もなかなかのものだった。
 しかし……これが秋になると、ちっこい毛虫がうざうざと道を覆うくらいに落ちているのよね……(汗



2002年8月5日(月)

 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を読んだ。
 おそらく最も有名になった元カルト映画であり、サイバーパンクというジャンルの案内役的存在でもある映画「ブレードランナー」の原作である。
 ブレードランナーは、私の好きな映画のベスト10に入る。ただし、劇場公開版、完全版、ディレクターズカット版、どれも少しずつ不満があったりするが、とにかく、あの世界が大好きなのだ。デッカード役のハリソン=フォードもかっこいいし、なにより、私がひそかに目をつけている俳優、ルトガー=ハウアーがイカす。

 いつだったか、原作は難解だ、と聞いたことがあるが、「ドグラ・マグラ」だのなんだのを読み通してきた私にとれば、実に分かりやすかった。
 しかし読んだ動機が「プレランの原作だから」ではなく、「アンドロイドという存在について言及した部分があるから」だというあたり……。
 これすらネタのためか己。

 それはともかく、3時間程度で一気読みしてしまったんだから、面白かったといえるだろう。
 アンドロイド(映画中ではレプリカントと呼ばれる)と人間と、どこが違うのか。
 決定的な違いはなにか。
 その辺は実際に読んで知ることだから、割愛する。
 ただ私は、「その定義でいくと、うちのPSOワールドのアンドロイドたちは、まさしく『人間』なんだな」と納得しただけである、うむ。



2002年8月6日(火)

 いろいろと経緯があって、「ELogin」という雑誌を見せられる。
 まあ……「美少女ゲーム」の情報誌である。
 「美少女ゲーム」というと、「ときメモ」なんかも入りそうな呼び方なんだが、どーやら専門的にはエロゲーをさすらしい。

 そんな流れになったきっかけは「男のオタク心をくすぐるような美少女・美女が描きたいなー」などという、この巣のどこかで洩らした言葉。
 腐女子の欲求を満たすようなものは書(描)いているが、性年男子を喜ばせるようなものがないのでは片手落ちだろう、と常々思っていたので、「こういうの参考にすれば?」という友人Rのありがたい申し出をそのまま受け取ったのである。

 それでまあ開いてみたんだけれど、ある意味、感心できる。
 何十本というソフトがあって、そのどれもが、とにかく「美少女と×××」のためだけに、ありとあらゆるシチュエーションやシステムを作っているわけだ。
 PCあるから、とそんなゲームをする気にはなれなかった私にしてみれば、この偏った情報濃度はかなり新鮮である。
 たった一つの目的のためだけに、ありとあらゆるものを利用しているわけだ。
 なんの言い訳もせずにこれだけドーンとまとまっていると、実に潔い。

 それにしても……いっそモザイクなくたって大差ないんじゃないか、と思うのは私だけなんだろーか。
 どうせアニメ絵だったりちゃちなCGなんだから、と……。
 それともモザイクあるがゆえに面白いものなんだろうかね、これは。



2002年8月7日(水)

 久々に自分の血を見る。
 こんな色してたっけなー、と思いつつ舐めてみる。
 相変わらず、薄い。味と成分がどう関係しているのかなんて知らないが、立ちくらみしまくるのも当然だな、と思えるほどの薄味でデリシャス(ぉぃ
 鉄分とらなきゃネ(死

 昔っから黒味の少ない血の色で、献血なんかでパックになると、あからさまに色の違いが分かったものだが、絵の具みたいなきれいな赤というのは、ちょっと不気味だった……。
 ちなみに私の立ちくらみというのは「立つ」までもなく、こうやってキーボ叩いてる姿勢から背中を起こしただけでも起こるものである……って、まずいのか、これ?



2002年8月8日(木)

 文庫や四六判などのカバー、書店で買い物をした時、かけてもらうほうだろうか? 断るほうだろうか?
 私は、かけてもらいたいほうだ。

 タイトルや表紙を見られたくない、という理由……ではない。なにせ、外で読むことはほとんどないし、見られて困るような本を外に持っていくこと自体、しないからだ。
 かけてもらう理由は、一つ。
 読んでいる時、特に夏場など、手が汗ばんでくると、そのせいで表紙の角(?)が湿って、擦り切れてしまう。これが嫌なのだ。
 何度も読み返す文庫は特にそうで、「これは繰り返し読みそうだ」と思った本には、かならず、その辺のコピー用紙を折りたたんででも、カバーをかけるようにしている。
 で、背表紙に手書きでタイトルをざっと書いておくわけ。

 ちなみに、最近の書店は何処でも、カバーをかけるかどうか聞いてくるが、買い物をする時、少しだけ気遣ってほしいこと。
 他にもレジに並んでいる人がいたり、買う本(カバーをかけてもらう本)の冊数が多いときには、「自分でかけますから、カバーだけもらえませんか?」とさっさと清算を済ませて退いてはくれまいか。

 今日、十数冊の文庫を買って行ったありがたいお客さんが二人いた。
 一方の人は、二人がかりでカバーをかけているのをイライラと待っているだけで、後ろに列ができていても知らん顔。まあ、文句をつけてこないだけまだまだまだまだマシ、普通の人ではある。
 もう一人の人は、さっと後ろを振り返って、人がいない時点では「お願いできますか」と言ってきたが、誰かが並んだその時に、「くだされば自分でかけますから」と言い出てくれた。
 待つ時間を惜しまないから、のんびりと待っていてくれる。そして、他に待つ人が現れた時には、自分が少しの手間をかけることを選ぶ。
 年配の女性のかただったが、こういう余裕はかっこいいな、と思うのであるよ。



2002年8月9日(金)

 久々に、小説の書き方ワンポイント。

 最近ふと思ったこと。
 「面白い小説」というのにも主にニ通りあって、「人物がリアルで共感できる、あるいは反感を覚える」という面白さと、「ストーリーの仕掛けや展開がダイナミックであったり斬新であったりして楽しい」という面白さ、がそうなんじゃなかろーか。
 後者のストーリーテリングで勝負する小説については、私自身があまり意識して書かないし、どちらかと言えば私の書くものは「登場人物」中心だと思うから、なんとも言えない。
 が、前者について、気侭に書き散らしてみよう。

 キャラクター、という架空の「人間」をより魅力的にしていくためには、表現できる技術があるかどうか以前に、自分なりの「視点」「信念」がはっきりしていないとならない。
 そうでないと、キャラクターたちの行動は上っ面だけのものになってしまいがちだ。
 必ずそうなる、とは言わない。
 作者本人が意識していなくても、なんとなく雰囲気として醸し出されていたりすることはあるし、なんとなく面白いものくらい、偶然の力を借りてころころと生み出されもするだろう。読み手が想像力豊かであれば、実は取るに足りない拙文からでも、様々なイメージが湧き出してくることだろう。

 けれど、何年も、何十本も書いていこうとすると、おそらく、「視点」「信念」が問題になってくるのではないかと思う。そして、いくつもの視点に自分を動かすことができ、いくつもの真実らしきことを持っているほうが、強いはずだ。
 それはつまり、様々なキャラクターを肉付けしていく際に、視点、真実ではないかと信じるもの(一つ一つは矛盾してもいい)が、そのままキャラクターたちに与えられていくからである。
 視点や信念の数が少ないと、それだけ、出てくる人物の個性の差が少なくなると、いうことになる。

 紙の上、モニターの上に置こうという「人間」には、信じるものがあるだろうか? 何故彼(彼女)はそれを信じているのだろうか? なにがあったのだろうか? 大事にしているものは? こんな時彼(彼女)ならばどうする? それは何故?

 けれど実際には、「作者」の信念や疑問から、登場人物たちはなかなか脱却できない。
 だから、何本もの話を書き、何人ものキャラクターを操っていると、何処かしら似た者ばかりになってきてしまうし、善悪問わず、どうしても作者にとって「心地良い」人物ばかりが増えやすい。
 作者本人が、書いていて気分が悪くなるような、嫌になるような、ムカついて仕方ないような……作者が目を背けたいと思う言動、醜いと思うもの、見たくないと思うもの。
 だがそれが、その書き手がリアルに形作ることのできる、もう一つの「キャラクター」だったりする。
 そして、そのムカつき加減を表現できた時、それはたぶん、傑作になると思う。
 だって、心地良く夢見る都合の良い空想ではなく、作者という現実の自分が嫌で嫌でたまらない、書きたくもない「なにか」、というものすごいリアルなものがそこにあるんだから。
 ただ、それを読んだ人もまた、「うげぇ」となるんだろう。

 「うげぇ」となって二度と読み返されることのない、けれど傑作。
 読まなきゃ良かったと後悔されつつも、その人の何かを思いっきり揺さぶれる力作。
 モノカキの端くれとして、一本くらいはそんなものを書いてみたかったりする。
 そして、実は構想もあったりするんだが、私は未だ、自分自身の「うげぇ」を乗り越えることができないでいる……。ちくそぅ(何



2002年8月10日(土)

 子育て関係の本についてポップを書く。
 抜き差しならないくらい深刻な家に比べれば、お互いの「心情」だけが問題のうちなんてのは楽なほうだろうが、それでも油の切れた歯車をごまかしごまかし動かしているような有り様だから、思うところもある。
 本には、いろいろあれこれと書いてあった。

 バカバカしい。
 一番肝心なところに触れていない。

 私には、そう思えた。
 御託はいい。細かいこともいい。
 どんな規範も基本も、そんなものはケースバイケースだ。
 「ケース」に左右されない根本的なことをしっかりと語るのでなければ、意味はない。
 歯車には右回りと左回りがある。
 左回りの歯車に、右に回すための方法を教えたって意味はない。

 では、「ケース」に左右されない根本的なことはなにか。
 私がそう思うのは、「いいところもわるいところも込みで、親(子供)を好きになれるかどうか」、ただそれだけだ。
 そしてそのためには、「親子だから」なんて考え方は、二の次にするべきだ。
 血縁なんか関係ない。
 共に過ごした時間も、恩義も、なにもかも関係ない。
 いや、それらは嫌でも含まれてしまうが、そんなことを真っ先に云々する必要なんかない。
 一人の人間対人間として、好きかどうか、それより大きなことはない。

 おっと。
 これはあくまでも、今の私がそう信じる、ということに過ぎない。
 今の自分や自分の家族というものを振り返ってね。
 それだけに、私にとっては真実だ。適当な常識による思い込みではなく。

 大学時代の知人の中に、非常にお母様と仲の良い女性がいた。
 まるで友達のように、二人でファッション雑誌を見て、「これ貴方に似合うわよ」「あ、お母さん、これいいよ」と話していた。
 それはたぶんその女性が、母親と対等な立場に立てるほどしっかりした人であったせいもあるだろうが、母親という人が、「貴方は私の子供」と自分の内側や下方に、その人を押し込めてしまっていないからでもあると感じた。
 そういった仲の良い親子を見るにつけ思うのは、「この人たちはお互いが好きなんだろうな」ということだった。
 いいところだけじゃない。気に入らないところもあるだろう。けれどそういうところも全てひっくるめて、結局は好きなんだろう。

 自分の「親」、あるいは「子」という立場には目を向けず、もし彼(彼女)が私の知人の一人だったなら、と考える時に分かる。
 「こんな奴と付き合うのは冗談じゃねえ」と思うか、「まあ、知人程度だな」と思うか、「いや、絶対になくしたくない」と思うか。
 一人の人間として、好きになれるのか。
 一人の人間として、好きになってもらえるのか。
 ただそれだけだと、今の私は思っている。



2002年8月11日(日)

 世界遺産の文庫本を見る。
 遺跡だのなんだのにはあまり心は動かないのだが、町そのものが指定されていたりすると、背景もろともの風景写真になっている。
 こういうものを見ていると、日本から逃亡したくなる。

 いや、日本からでなくてもいい。文明ではなく文化、あるいは自然、それとも時間を感じられるどこかへ、この煩雑なだけの街から抜け出して、ひたりに行きたい。



2002年8月12日(月)

 最近繰り返して聞いている曲。

・カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲
・秋風の狂詩曲(Raphael)
・Syunikiss(MALICE MIZER)
・ヴェル・エール(MALICE MIZER)
・SHOULD IT MATTER(SISSEL)
・STILL ALIVE(聖飢魔U)
・Ziguenerweisen
・悪魔のトリル

 ……夏らしいさわやかな曲とか明るい曲がないあたり……。



2002年8月13日(火)

 凄まじいばかりの勢いで。仕事に対するやる気がない(マテ
 人並みに週休二日というのに耐えられないあたり、社会的ダメ人間である。

 労働そのものはイヤでもなんでもないんだが、自宅における作業との時間配分の問題なのだ。
 そのバランスがうまくとれないと、垂直落下のスピードでやる気が失せていく。
 そういう時には些細なことが気に入らなくなるから(仕事において)、それでますますやる気が失せていく、という悪循環。
 しかし、そんなアホなことを言ってみたところで、今日もせっせと働きに行く。やる気の有無なんてものは、仕事するかどうかとは無関係だ。どんなにかったるくても、行けば働く。そうするしかない。

 せめて、何時から何時、と決まっていればまだしもいいんだろうが、開始時間が15時〜18時の間で毎日のように変化するし、就業時間も5〜8時間とバラつきがある。
 その上、現在、一時的人手不足のおかげで本来の担当ではないコーナーにまで行かされる。元々割り振られたコーナーでさえ、仕事を完璧に自分のものにしたとは言えず「これでいいのか? まずいのか?」と思いながら、それでもなんとか慣れてきたところだというのに、かつて経験したことがあるというだけで、別コーナーにまで突っ込まれ。
 「こうすればいい」と正解をはっきりと理解していれば、そうすればいいだけのことだ。あとは、それができるかできないかで、できるならやればいいし、できないならそれが自分の能力の限界だというだけのこと。
 だが、それが正解なのか、それとも不備があるのか分からないまま、とにかくこなすというのは、私は落ち着かない。完璧主義な面もあるんだろうが、なにより、裏でゴチャゴチャ言われるのが嫌いなだけだ。こっちゃ気付いてねえからそこで終わってんだから、不備があるなら教えりゃそこまでやってやるよ、と喧嘩腰に。
 これらが無駄に疲れる要因でもあるんだろう。

 しかし、こんなスケジュールはおそらく8月中のことだけで、9月に入って、帰省している大学生が戻ってくれば、今度は働きたいと言ったところで、週四しか入れてもらえなくなることも目に見えている。
 今月中に稼いでおかねばなるまいよ。
 さもないと、来月ゲーム休みがとれない(ぉぃ



2002年8月14日(水)

 実は、車があまり好きじゃない。
 他人が運転するのに乗るのも、たいていは乗り心地が悪くて落ち着けない。
 昨今の免許取得の甘さを考えると、ちっともなめらかでない発進も、無駄に遠心力のかかるカーブも、納得できる。
 そういった点では、年配の、熟年した人の運転は安定していて、リラックスしやすい。

 自分で運転することを考えると、嫌になる。
 ブレーキやエンジンに私の感覚が備わっているのならばともかく、あれは完全に私とはなんの関係もない独立した機械で、私の望んだとおりには動いてくれない。
 そんな、完全に御することのできない鉄の塊が、あのスピード、あの重量を持っているのである。
 人身事故を起こせば悪いのはほぼ一方的に車を運転していた側になってしまうし、それを回避しようと思えば、歩いていたりする以上に、周囲に神経を配らなければならない。

 慣れてしまえばどうってことはない、と友人は言うが、車検だのガソリンだのにバカにならない金かけて、わざわざ神経すり減らすのもなんだかな、という気がしてならないのだな。
 もちろん、移動範囲は広がるし、広がれば様々なものがその中に入ってくるから、いろんな面での選択肢も増える。それはプラスの面として評価しているが、車道にズラズラ並ぶ鉄の塊を見ていると、どうも……。

 車、というものがもっとコンパクトになり、自分の感覚をもって自在に操作できるようになったら、乗りたいと思う。エンジンやブレーキ、サス、全てに自分の感覚をシンクロさせてコントロールできるようになれば。
 そうすれば、移動距離、時間短縮、といったもののために、維持費やガス代を支払ってもいい。

 なんて……SFだよなぁ……。はぁ……。



2002年8月15日(木)

 ある人と延々8時間、チャットして過ごす。
 実際に会話していればもう少し短くすんだかもしれないが、あるいは長くなったかもしれない。
 だがなんにせよ、彼は根気よく私に付き合ってくれたし、その話というものは、眠気もなにもかも吹っ飛ぶくらいに、実りに満ちていた。

 迷惑をかけただろうし、疲れさせもしただろう。
 けれど、お互いを信頼すればこそ、「ぶっちゃけた話」と腹を割って語れるのだし、それについて率直な言葉を応酬する、という時間は、なかなか持てるものじゃない。
 ある意味、顔を合わせていないチャットだからこそできることなのかもしれないが、だからといって、希薄なコミュニケーションだとは思わない。

 そして、それだけの時間と労力を私のために使ってもらったことについて、「すまなかった」と詫びるのではなく、「ありがとう」と言い、またそう言われたほうが嬉しい、と言ってくれる関係。
 そう簡単になくしたくない友人の一人だな、と実感する瞬間だった。


Made with Shibayan Diary