2002年7月1日(月)
久々に「グランディア2」なんぞ引っ張り出してみる。
さすがに連日PSOだと飽きがくるが、新しいゲームを買うにも$がないので、昔やったゲームをまたやりなおすのである。中にはクリアしていないものもあるから(ex.レジェンド オブ ドラグーン、ミスティック ドラグーンなど)そういうのを進めることも、ある。
G2は一度ざっとクリアして、二度目は全アイテム入手でも狙ってみるか、と(数度しか戦えない敵から確率で手に入るものは無視)途中まで進めていたから、その続きである。
幸い、どこでやめたかまだ記憶していたので、さくさくと続きにとりかかる。
このグランディアというシリーズは、とある友人に勧められて手をつけたんだが、ストーリーは1のほうが秀逸だと思う。変に観念的になった2のほうが、そのせいでキャラクター同士の関係や心情まで、台詞に頼りすぎる感が否めない。
が、繰り返し遊んでもさして退屈ではない、戦闘システムはかなり私の好きなタイプだし、ストーリーも、どれとは言わないがなんでもかんでも台詞で説明しようとするゲームに比べれば、はるかにいいと思う。
イベントのテンポだけはもうちっとアップしてほしい気もするがね。
そんなこんなで、気が付けば昨日の夜から今日にかけて、4時間くらいプレイしてしまったのだった。
2002年7月2日(火)
人にはそれぞれ、できることとできないことがある。
人と同じことができないからといって、嘆くことはない。
できないことを顧みて思い煩うより、できることを考えて、それを少しずつ増やしていけばいい。
それがどんなにささいなことでも、中には、そのささいなことすらできない人もいるのだろうから。
できること、できないこと、持っているもの、いないもの。
そういうものを全部含めて、その人は人なわけだ。
そして、そんな自分、あるいは他人を、そのまま「そうか」と納得してやるところから、次のステップがはじまるのかもしれない。
ちとお悩み相談めいたメールがきて、つらつら考えたついでに、こんなことを書いてみたのであった。
2002年7月3日(水)
地雷踏む覚悟で、ちょっと真面目な話題。
というか、……うーん、うちはカウンセリングサイトじゃないんだが、何故に悩み相談室? まあいいんだけどもさ。
いじめについて。
専門的な話とか社会がどうの、というのは、私の言うことではない。あくまでも自分の見たもの、聞いたもの、読んだものなど、体験だけを通して考えるから、正しいかどうかは問わないように。こういう考え方もあるんだな、くらいで参考にするのがベストである。
さすがに高校時代にはそれらしき光景や噂を聞いたことはなかったが、小学、中学時代には、あきらかにそれとわかるものが私の身の回りにもあった。
そういうのを思い返して考えると、以前の日記で書いたことがあるが、「何故いじめられるのか」ということになると、これはもうタイミングが悪かったとしか言いようがない気がするんである。
だいたい、いじめの理由なんてものは実にささいだ。
仮にAという資質(ぼんやりしてる、陰気、授業中にいきなり吐いたことがある、などなどなんでもいい)のせいでいじめられている子がいたとして、それは同じAという資質を持っていても、いじめられずにいる子もいる。
言ってしまえば、いじめられる側には、大した理由はない。誰でも欠点は持ってるし、人に笑われるような間違いなんかをすることはある。さらにいえば、欠点でも間違いでも失敗でもないのに、いじめられることもある。自分が見たかぎりでは、「AちゃんってBくんが好きなんだって」と学年中に言いふらされてしまうのも、いじめと言えばいじめだ。
もちろん、いじめられるかどうか、には少しはその人の対応とか性格も関わってくるかもしれないが、なにより大きいのは、周囲の人間がそれをネタにして楽しもうとする気になるかどうか、だと思う。
他人の落ち度なんかがどうこう、というより、自分の楽しみや憂さ晴らしが、いじめの根本でないかなー、と思う。
だから、適当な原因(まさになんでもいい)を持っている人がそこにいて、自分の周りに賛同者がいれば、それだけでいじめは開始できる。
で、いじめグループの人数が増えるほど、周囲の傍観者を巻き込みにかかる。
好きな子が誰かを言いふらす、程度なら、やっていても罪の意識は薄いから、どれだけでも広がる。たとえ本人にとっては深刻で、大事にしていたい恋心だったとしても、そんなことはお構いなしだ。大したことじゃない、と思うから広がっていく。
机を隠す、落書きする、毛嫌いする、といったタイプになると、みんなでやれば怖くない、という心理に近いんだろうか。そんなことをされれば困るし非常に嫌がるだろうことは想像できても、「あいつムカつくし」くらいの理由で一致団結すれば、それを引き金に繰り返せる。
煙草の火を押し付けるとか殴りつけるといった身体的なものになると、これは自分の優位性(強さ)をそうすることで確認しようとしているんだろうな。こういうのは「傷害罪」に入ってくることだから、未成年だろうがなんだろうが、それほど大きなグループには発展しない。ただし、これも「みんなでやれば」と同じで、何人もやっているのを見ると、自分もしてもいい気になってくる。
なんにせよ、人数が増えれば増えるほど、「みんなやってるんだから私も」になりやすい。悪いことだという意識も薄れてくる。「それくらい大したことじゃない」と錯覚しはじめて、エスカレートする……のかもしれない。
止める者がなく助長する者ばかりだと、自分のしたことに対する評価、というものもアテにならなくなる。責められることがなく、罪の意識もなければ、いくらでも残酷なことができるのが人間だ。
最初に書いたが、そういう時、いじめる口実はなんだっていいわけだ。
口臭がひどい、とかなにか「落ち度」と言えそうなところがあれば、瞬く間にそれを利用される。たとえ胃腸が悪くて、歯磨きではどうしようもないような口臭(というか、これは息のにおいだろうが)でも、関係ない。
そして、そういう人は「ムカついたらいじめてもいい奴」というスケープゴートにされていく。
普通の人付き合いの中では、「ムカつく」と思っても、それをなかなか実行できない。なんだかんだで義理があるとか、あるいは損得勘定とかで我慢する。
が、「いじめていい奴」がいれば(義理もなければ損得もさして問題にされない相手がそうなる)ちょっとムカついた→好きなようにいじめてすっきり、というストレス解消ができてしまう。
いじめが「いいこと」のわけはない。それが分かる年頃になっても続けているのは、「わるいこと」をする快感、みたいなものがそこにあるからじゃないか、と考えたことがある。
一人で実行してみんなに責められるのではたまらないが、みんなで実行すれば、自分ひとりの責任というものは感じなくて済む。「先生」なんてものにはさしたる権威もなく恐ろしくもなく、日ごろの報道で「未成年」が法的に保護されていることなんかも知っていれば、怖いものはない。
立場的に弱いもの(少数だとか、弱みがあるとか)を、思う存分いたぶって、ストレス解消しつつ、自分(たち)の強さや偉さを錯覚する。そのために生贄は、「弱い」相手を探し出す。めちゃくちゃ喧嘩強いような奴に迂闊なことすれば、ぶん殴られてけり飛ばされて、痛い目にあうのは自分たちだからね。今時いないような気もするが、親が政治家だとか地方の有力者で、その子供におかしなことするとその土地にいられなくなる、とかいうことがあれば、そういった子もいじめの対象からははずされるだろう。
いじめられる側は、こうなるともうどうやっても抜け出すことはできない、といっていいかもしれない。残酷だが。
たとえば、なにか悪いところがあってただそこを責められているだけなら、なおせばいい。なおせばやめてもらえる。だがいじめる側は、なにかが悪いから、とそれを指摘していじめているようでも、実際はそんなものは口実にすぎない。なおそうとすれば「なにやってんのこいつ」とかそのことでまたあれこれ言われたりするようになるんだろう。
教師が役に立たないことはいじめられている生徒が一番よく体感してるだろう。目に見えるいじめであって、なにかしてくれる教師なら、その場で即刻、厳重に注意し、親にも警告するなど、行動をとる。いじめがなくなるまで、動いてくれるだろうが、そうしてくれないから、いじめは続行している。
こっそりと教師に隠れて続いているようなものだと、発覚しにくい。噂で聞いたとしても、それを探り出そうとしてヤブヘビになることとか、面倒だとか考えれば教師は動かない。
というか、大学に通って、教師になろうとしている人間がどれくらいいい加減で「ただの人間」でしかないかは目の当たりにしてきているから、奴等に期待できるとはまったく思えん。
昔は大学に通うというのは、お金もかかるし、本当に向上心のある者の特権だったのだろうが、今ではほとんどの人間が行く、ステータス程度だしな。その中で、就職口の一つとして、くらいで教員免許とりにいくんだから、教師の質が落ちるのも当然だ(おっと、脱線
いじめられたらどうするか、は、だからなんとも言いようがない。
自然と生贄役が終わるのを待つか、なんとかしてくれそうな相手を見つけるか、それとも転校してしまうとか。だがどれにしたって無理がある。
我慢しているのだってストレスだし、損だし、悔しいだろうし哀しいだろう。
なんとかしてくれる相手ってのは、とてもいそうにない。せいぜいで親だ。ただしその親も、どれくらい親身に理解するかとなると疑問だ。「悪いところがあるならなおしなさい」とか「我慢して学校に通うのがあなたのため」とか、そんなことを言うだけがほとんどだろう。「相手の子のうちにいって親に文句言ってやる」とか派手に行動できる両親なんて、なかなかいるまい。分別のある大人、というやつはそういうのを恥ずかしいと思うし、なんにも考えずにそんな行動に出てしまうような親というのは、自分の感情で動いているだけ(うちの子=わたしのものに手を出すなんて、程度だ)だから、実は大して役に立たない。だいたいは、迂闊なことをして波風立てるより、と保身を考えるだろうし。
転校してしまうのがいいのかもしれないが、そうなると金銭面とかもからんでくるから、どうしても家族ぐるみの話になる。一人暮らしさせるにしても、送金してやらなきゃいけないわけだし。
私はいじめられる側に回ったことはない人間だから、そのつらさというものは、言葉でしか分からない。想像でしか感じられない。
腹立つし殺意覚えるし悔しいし哀しいし惨めだし、という感じなんだろうか。あるいは、自分の存在そのものを否定されたような、死にたくなるような暗澹とした気分なんだろうか。
しかし、とあるいじめられた側の人が「あんな奴等のために自分が死んでやることなんかない、と思った」といったのは、そうだなと思う。
やりたいこともやってみたいこともなく、未来なんてなくてもいいというのなら、私はべつに止めやしません。自殺でもなんでもすればいい。そうしないと楽になれない、と思うなら、適当なおためごかし並べるより、好きにしなさい、と言ってやることが他人にできる精一杯の誠実さのような気もするし。
ただ、そんなのは勿体無い、まだ死にたくなんてない、と思うなら、相手殺したっていいから、自分が死んじゃいかん。殺人おかせば、それでも自分の人生にはマイナスだが、正直なところ、そこまで追い詰められていたのか、と周りの目を覚まさせる役にくらい立つかもしれん。追い詰められると人間なにするか分からん、という教訓にもなるだろう。もっとも、これもできるならとらないほうがいい手段には違いない。未成年だろうとなんだろうと、そういう過去が将来、肝心な場面で自分の邪魔をすることだってある。できるなら、リスクはおかさないにかぎる。
長々と書いてきたが、結論。
いじめなんてーものは、いじめられる側が「わるい」から起こってることなんて、まずないと言っていい。だから、いじめられている人は、まずはいじめの口実について自分の身を振り返ってみて、なんら恥じることはないと思ったら、少なくともいじめのことで自分の存在意義のようなものを否定することはない。他人にどんなに罵られようと、貴方も他の人も、そう大差あるわけじゃないんだから。
だから、「生きている価値がないように思えてきた」という理由で世をはかなむことはない。
一番いいのは、自分が安心して逃げ込める場所を作ることだ。
それはなんでもいい。家族といれば嫌なことはない、というのなら、うちに帰ればほっとできるだろう。正直にいろんなことを話せる相手がいるというのも、救いになるはずだ(リアルでもネットでもいい)。
あるいは、自分が大切にしているなにかに打ち込むのもいい。といっても分かりづらいなら、今から挙げる二冊の本でも読んでみてくだしゃんせ。
一冊はコミック。「ビタミン」というタイトルで講談社から出ている。 すえのぶけいこ、という人が書いてるんだったと思ったが……。
もう一冊は小説。「エミリー」。集英社から四六判で出てる。著者は嶽本野ばら。
それぞれ主人公は、自分の心のよりどころを見つけることで、いじめという苦界の中にあって自分をたもつことに成功する。こういう形もあるんだと、参考にはなるだろう。
2002年7月4日(木)
昨日の続き。
いじめを見ている側についてなんにも言及してないので。
いじめる側にも入らず、いじめられる側でもない立場にいる人。
まるでいじめに無関心で、他人事ならどうでもいい、という人は、その立場を貫いて、いじめに加わることさえなけりゃいいと思う。
ひどいことしてる、と思いながらも、変に庇うと自分までいじめられそうだとか、正義の味方ぶってるみたいで嫌だとかいう時も、流されたり誘われたりしていじめる側に入りさえしなければ、マシだと思う。
しかし実際は、いじめに加わらないことでさえ、いじめられる。
そうしていじめる側のグループは大きくなり強力になっていくわけだが。
自分までいじめられる覚悟をして、無理に助けようとすることはない。
なにせ他人だ。
親身になってやれるなら大したものだが、無理まですることはない。
はっきり言って、無理して助けようとしたって、うまくいかんと思う。無理が続けば疲れてくるし、疲れてくればいい加減になる。いい加減になれば本音も出てくる。結局、途中で嫌になって、「おまえにも悪いところがある」とかいじめられている側を突き放すことになるのがオチだ。
できることだけすればいい。
できないことはしないでおけばいい。
現実的には、これが精一杯なんじゃないかと思う。
理想をふりかざすことはできるが、実現する見込みも計画もない理想なんてものは、ただの空想だ。
そんな巨大な夢を見るより、どんなに小さくてもいいから、現実にできることだけしているほうがマシじゃなかろうか。
それはたとえば、できるかぎりいじめる側には入らない、ということでもいい。なんにも考えずにホイホイとのってしまうことに比べれば、それだけでもなにかしていることにはなる。
できるなら、いじめが開始された初期の段階、まだエスカレートする前の時に、まるでそんなことに興味もなさそうに「それがどうかしたの?」くらいに流しておけば、鎮火させることはできるかもしれないが……それも、タイミング次第だ。
理想は、普通の友達として付き合う相手になることだが、そうするためにはいじめの度合いとか、自分の性格なんかも大きく影響してくるしな……。
ツラツラと二日にわたり書いてきて、ふと思ったこと。
いじめを止めようがないのは、権威が失われたからかもしれない。
「そんなことはいかん」と強く叱り付けられる権威。教師でもいいし、親でもいい。その人にそう言われてしまったら、「悪いことをしてしまった」と罪悪感を覚えるような、確固たる権威の持ち主がいなくなったことが、原因なのかもしれない。
昔の日本は儒教の支配が強くて、君に忠、親に孝。年上の人、とりわけ親の言葉は絶対だった。たぶん人間も、その権威というものを自然と感じられるように生まれ、育ったんだろう。
それが今は、平等になり自由になり、そういった力は失われてしまった。
それは悪いことばかりではないが、そういう身近な権威が失われてしまったがために、「これは悪いことだ」という言葉に重みもなくなっている。
代わりの権威が必要なんだろうが、……ま、無理だな。
法律作ってシステム作ってみたところで、訴えられないように、と姑息になるだけだし、裁く対象は集団だ。どこまでがいじめか、ということになると本人の感性次第で、線引きも難しい。
身体的ないじめに到っていれば傷害に問えるとしても、そうすれば今度はもっと陰湿に精神的なものに切り替わるだけだろう。
タイミング一つで、たまたまいじめやすかったら、といじめられるんじゃ、たまったもんじゃない世の中だぁね(私の考えたことが外れてないとして、だが)。
時代物好きで江戸の捕物帳なんか読んでると、親を傷つけただけで死刑、とか10両盗めば死刑、とかとにかく現代から考えれば非常に苛酷な刑罰に出会うが、昔はそれっくらい厳しかったから、犯罪者、それに類する者も少なかった。刑罰は罪人の処分より見せしめのため、というのが江戸時代の姿勢らしいが、それは図に当たっていたということになる。
いろんなものが許されて、自由になって、慎重になっただけ曖昧になって、それが結局今だとしたら、これから先ははたしてどーなるのかねぇ……。
2002年7月5日(金)
my roomのほうにある日記の中から、消したくないものをまとめて残しておこうとする。
突然、文字化けというか、おかしな現象が起こり始める。
立ち上げなおせばなおるからいいんだが、……面倒だ。
グランディア2、クリアする。
てやはりイベントが長い。
ラスボス倒してから30分以上、延々とストーリーが続くんだが、こうなると見ているほうも集中力が続かなくなる。
もう少しテンポを上げるとか、あるいは短くまとめるとか、できなかったんだろうか……。
今朝方、寝ようとしてもどーーしても眠れなかった。
寝ようとしたのは3時半頃で、いつもならくだらないネタとか考えてる隙に、1時間もあればいつの間にか寝てるんだが(寝つきは極限に悪い)、どうしたことか、異様なまでに気がささくれだって、眠れないのだ。
思う存分なにかを破壊するとか、大声を上げるとか、なにか発散したいものがあるのは確実なんだが、夜中です、夜中。それに、一応理性というものも存在します。
結局、7時くらいまで格闘していた。
うちの居間にある時計がジャストごとに音楽を鳴らすので(光を感知した場合のみ)、7時のそれは聞いたのだ。
8時のは聞かなかった。
まったく……。
キレそうというか、イカレそうというか……コワレそうな感じで、嫌なもんだったよ。
2002年7月6日(土)
久々に13時間労働。
それも力仕事。
疲れた……。
楽しかったからいいけどさ。
2002年7月7日(日)
1.
バイト中、「そこに落ちてましたよ」と10円をわざわざ届けてくれたお客さんがいた。
よくもまあ正直に、と思ったが、ふと思い直す。
これが100円でも、1000円でも、その人は届けたんだろうか?
10円でも届けたのか、10円だから届けたのか。
うーむ。
2.
妙な夢の話。
カラスの夢を見た。
沼地に崩れ残ったブロック塀の上に、一羽のカラスがいる。そいつは近寄っても逃げないし、触ってもおとなしい。
それをいいことに羽を広げさせてみると、内側はきれいな群青色から青紫にグラデーションして見えて、なかなかだった。
しかし、あまりにもおとなしいことが不思議で、あちこち触ってためしてみる。頭、体、尾羽に触っても、その場で多少動きはするが、暴れたり逃げたりはしない。
もしかして飛べないんだろうか、と思い持ち上げてみると、嫌がるような抵抗は感じられるが、それでも逃げはしない。
そーしてついに、沼目掛けて放り投げるという荒業に出た。
それでもやはり飛ばないカラスは、頭から沼地に落ちた。
さすがに腹が立ったのか、噛み付こうとする。くちばしを手で押さえると、中に入った指に、なまあたたかい舌が触れた。
ただそれだけの夢なんだが、自分のHNの意味がカラスだから、少し面白かったのさ。
2002年7月8日(月)
池波正太郎氏の「剣客商売」をつらつらと読み返す。
そしてやはり、でかい作家だよなー、と思う。
ものを作る職業の人には二種類いて、ひとつは寡作タイプ、ひとつは多作タイプ。
どっちが優れているということはなく、発表される作品が、相応の人を楽しませればそれでいいのは言うまでもない。
ただ私は、百冊をこえるような本を出した作家というのは、すごいと思う。
なにせ、それだけのアイディアがなければならない。
書き付ける中身がなければならない。
おおかたのテレビ時代劇のように、パターンをしつこく踏襲するのもかまいはしないが、小説家がそんなことをやれば、ネタ切れかと見放される。
多くの作品を書くためには、それだけのものを見ていなければならない。なにを見ても同じようなかんそうしか持たないとか、大してなにも思わないという人は、あっと言うまもなくネタが尽きてしまう。
誤解のないように書いておくが、ただ目に映しておけばいいとか、経験すればいい、ということではない。
表現していくテーマ、核というものは、ひとつでもいい。だが、ひとつのものも、いろんな面から見てみると、違って見えてくることもある。一つの方向からしか見ないのでは、意味がない。そして、それを表現するために様々な形で取り組む、というくらいでないと、大量の作品というものは、絶対に書けない。
どこかで書いたかもしれないが、以前読んだ本の後書きに、「プロの作家にとって必要なのは、ネタの数そのものより、自分のなりのものの見方や考え方をしっかりと持つことだ」というような記述があった。
つまりは、そういうことだ。
月に一本とか二本と話を書いていけば、貯めておいたネタなんてものは、すぐに使い切ってしまう。だから、具体的なネタを増やすことよりも先に、どんな物事を見てもそこからなにかを得てくるために、しっかりとした目を開かなければならないし、そのことについてなにか一言いえるだけの考えをもたなければならない、ということなんだろう。
池波氏の「剣客商売」は16巻。これに過去の話を扱った巻なども加わる。これはうちの数冊を除けば、全てが6編ほどの短編からなっている。
ひとつの世界、ひとつの舞台を用いて、次々といろんな事件を生み出し、解決させるだけでなく、その中に人間のいろいろな面を見せてくれる。
だからすごいと思う。
まだ若い私がそういうのだから、もっと様々な年月を経て、その間様々に考え、動いて生きてきた人が読めば、さらに分かることもあるのではないかと思う。
かつ、池波氏は「鬼平犯科帳」という、やはり短編連作のシリーズを書いているわけだから、その作品数というのは膨大なものになる。「仕掛人」シリーズも、数こそは多くないが、やはり短編連作で、それなりの数は出ている。
話を面白いと思うかどうかは個人の好みだから、池波氏の小説を見てもつまらないと思う人も当然いるだろうが、読み返していて、つくづく私は、その豊富なアイディアが羨ましくなった。
私もかなりのペースで書くほうだし、この一年に書いた話の数を言えば、尋常なものではないのかもしれない(質は問うな
だが、それを十年、二十年と続けていき、さらに読者を引き付け続けられるか、といえば、自信の持ちようなどまったくない。
どんな偉い賞をとった作家より、私は、こういう何十年にもわたって活動しつづける多作系作家のほうが好きだ。
月に一本、人前に出して恥ずかしくない話を十年間、書きつづけられるかとなったら、これは根気以上に、閃きや発想、それを料理する技量がないとどうしようもない。
正直、素人にでも、一冊こっきり程度なら、何百人という人を感動させる本が書けないこともない。たまたまそんなものに仕上がることだってある。が、それはマグレだ。
何十年と続けていく中で、常に一定以上の質をたもった作品を世に送り出していくというのは、これが才能というものなんだと思う。
もちろん、そういう作家の作品であればすべて好きかといえば、そこは好みの問題だ。
だがまあ、よーするに、池波さんってすげーよなー、などと思っていたここ数日のことなのだ。
2002年7月9日(火)
どうも近頃、話を書くための精神状態にならない。
原因はおおよそ分かっている。
そもそも私は暴走型で、気ままに過ごしているうち、面白いと思ったなにかがあった瞬間、発動する。
抑制が多くなると、それが阻まれる。
刺激を受けている最中は次々とイメージも出てくるし、ネタも浮かぶが、さあそれをまとめよう、という時になると、わずらわしい現実の諸々のことどもがさしせまってきて、ブレーキになってしまう。
読んでくれる人を楽しませたいし、新作ないかなー、と思ってくれる人の期待にも応えたい。
だがなにより、自分で読み返して面白いと思える話、書いていて楽しい話を書きたい。
そんなわけで、今は書くより読むことのほうが多い。
2002年7月10日(水)
気まぐれに。
私の思う「面白い話の書き方」でも。
講座と銘打つほどたいしたものでもないし、どれだけ役に立つかも分からないが、私の感性とか好みから発して、ひとつの「面白い話」のパターンについて言及してみたり。
それが結果的に、なにか話を書こうという人には、役立つこともあるかもしれない。
第一に私が思うのは、「本にして最初の3ページくらいで読者を引き付ける」ということ。
これは当たり前で、読み出してからしばらくが面白いと思えなければ、続きなんて読んでもらえない。
だから、そのために仕掛けをつくる。
私がよくやってしまうのは(それでパターン化しちゃ無能だとは分かってるんだが)、物語のうちで面白そうな部分、ある種の山場を冒頭に持ってきてしまい、何故そうなったか、をその後に書き始める、というもの。
派手なアクションシーンや、意味深な言葉、なんだこりゃ、と首を傾げさせるような事態、なにかそういうものをポンと置いておいて、興味を引き付ける。
あるいは、魅力的な人物を紹介するのもひとつの手だ。ものすごい美男子、美女でもいいし、変わり者や憎めない奴でもいい。この人がどうなっていくのか、とやはり興味を持ってもらうためである。
特に、新しいシリーズものをスタートする時には、こういう仕掛けが大事だ。
既にシリーズ化していて、キャラクターが定着していれば、冒頭なんてものは大して問題じゃなくなる。馴染んだお気に入りのキャラたちがどう動くのか、を読者は楽しみにしているわけだから、肝心なのは中身の仕掛けになってくる。
が、初めて読ませようというシリーズには、頭がなにより大事だ。
パロディという分野だと、既存のキャラを好きな人が読み始めるのだから、物語の冒頭というものは、あまり関係ない。いかにキャラを「美味しく」表現するか、そのための道具立てや、文章能力そのもの(読みやすい、分かりやすい)が大事になってくる。
だがオリジナルで作り出した話、キャラクターを見てもらおうというなら、冒頭が命だ。
そこで読者を引き付けられるかどうかだけが全てだ。
これは本でもwebでも関係ない。
本なら後書きをパッと開けるし、あらすじや帯もついているから、まだしも内容がどんなものか、ある程度見極めてから読めるだけ楽だろうか。
webは素人の集まりだし(もちろん中にはプロやそれに準ずる人もいるが)、上手い下手には関係なく作品は存在している。それだけに、読み手はなんの保証もないまま、物語を読み始める。
たとえどんなにすばらしいシーンが後に待ち構えていようと、どんなに伝えたいテーマがあろうと、そこまで読んでもらえなければ、意味はない。頭の数行で「あ、こいつつまんねえ」と判断されてしまったら、そこで終わりだ。
そんなわけで、物語を作ろうという時には、テーマやタイトル、キャラクター以上に、冒頭部分をどう興味深いものにするか、が大事じゃないかと、私は思うわけである。
2002年7月11日(木)
ここ一年ほど愛用していた時計が壊れた。
電池切れならいいんだが。
日付が表示されるデジタルタイプで、けっこう気に入っていたんだが……。
仕方ないので、適当に手元にある時計を使うことにする。
アナログのちゃちなやつなんだが、「今日は何日だったけな」とつい時計を見てしまう……。
2002年7月12日(金)
一昨日の日記のせいだと思うが、「文章そのものが上達するための、いい方法はないか」というお問い合わせがきてみた。
そんなものを私が知るわきゃないデス。
ただ、私の書く文章(物語ではなく)がそこそこ読みやすく仕上がっているとするなら、私の言うことも、少しくらいは役に立つのかもしれない。
絵は、模写からはじまる。
美術というものにしたって、デッサンという実像の模写を機軸にして、発展させていく。
マンガやイラストも、自分なりの絵柄というものを作っていくためには、まず数をこなすことも大事だが、やはり見ておかしくないようにある程度のデッサン力はなきゃならないし、そしてある程度は、どこかで見かけた絵の、いいと思う要素を取り込んで、作っていくものだと思う。
文章も、だったらそれでいいのかもしれない。
そんなわけで。
自分の好きな「上手いなー」と思う、短い作品を一つ選んでみましょう。
それを、まるまるそのまま、写してみましょう。
書き写す(打ち写す)だけです。
その際、「こうしたい」と思うようなことがあったら、変更しても構いません。
それで頭から最後まで写してみるのです。
あるいは。
お気に入りのマンガや、一枚のイラストでもいいので、絵がメインの作品を用意しましょう。
そこに描かれているものを、自分の言葉で表現してみましょう。
マンガなら、台詞や効果音はありますが、人物がどうしているかは、絵そのもので表現されています。それを、上手下手は問いませんから、自分の言葉で、文章で、書いてみるのです。
面白いストーリーは既にそこに存在しているのですから、貴方はそれを文章にするだけです。ネタを考えなくていい分、文章そのものに集中できます。
えーと、うちは塾とPSO、ルキズのお客さんで成り立ってますが、例に使えそうなのは塾だけですか。
それも今、手元に文庫ないんですが、幸い特盛がとってあるので、やってみましょうか。
たまたま開いたのは伊達・羅刹戦ですねぇ。
「こいや。待ちくたびれたろう」
伊達は羅刹を振り返り、軽く促す仕草を見せた。その声からはわずかな疲労も伺えず、いつもと変わりない、揶揄の調子さえ含んでいる。
余裕に満ちたその声を聞き、虎丸は一瞬鼻白んだようだが、やがて口元をいまいましげな笑みに歪めた。
「伊達のクソ馬鹿野郎、何がこいやだ。船もなく炎の水面を、この距離でどうやって渡れというんじゃ」
虎丸の言うことはもっともだった。
羅刹の立つ小さな足場は、虎丸のそれと同じく、闘場からは二十米ほども離れている。人が一息に飛び越すにしては、あまりにも大きな距離だ。
だが羅刹は平然と、マントの下に手を差し込んだ。その手が再び見えた時、そこには白く丸いメンコのようなものが数枚、握られていた。
そのメンコを、羅刹が炎の海、油の見える隙間に放り投げた。一度に投げられたその紙片は、一枚も誤ることなく、炎の中ではなく、油面に落ちる。この一事からだけでも、羅刹という男の腕前のほどは知れようというものだ。
だが、虎丸はそこまで思い至らないのか、
「あーん? 何をする気だ!?」
不思議そうにそのメンコを注視した。
その時だ。
羅刹が足場をけって炎の海へと飛び出した。
無論、伊達のいる闘場に届くほどの跳躍ではない。
虎丸がぎょっとして目を見開く。
その前で、羅刹は炎の合間に浮かぶメンコの上に、着地した。
沈む、と誰もが思った。
だが沈まなかった。
羅刹は油面に浮く紙切れを足場に、再び跳躍したのである。
……ってぇ感じですか。
ストーリーや動きは、ほとんど宮下先生が作ってくれてますから、まずはまったくそのまま、コマの情景を書き出します。それが簡単にできたら、次はあるいは場所によっては補ったり、削ったり、入れ替えたりして、小説らしくしてみます。
今回は例だと、最後の虎丸の台詞、後半はカットしました。何故なら、羅刹がメンコのようなものを浮かべたことは、先に地の文で説明してあるからです。マンガでは必要だった解説を、小説では羅刹の行動を描写する時に書かざるを得なくなっていますから、二度も説明することはない、というわけです。
ちなみにこのトレーニングの場合、できるだけ忠実に書くことが大切です。
かってに伊達を笑わせたり、虎丸を心配させたりしてはいけません。だって宮下先生は、この段階でその必要はない、と判断しているかどうかは知りませんが、そんなふうには書いてないのです。
それを、虎丸は伊達っちにラブだから〜、と自分の妄想を織り込んでしまっては、意味がありません。
まあ、ひまじゃないとできないことですが、自分の好きなマンガのワンシーンとか、小説にしてみるのは面白いかもしれませんよ。
では、以下次回。
2002年7月13日(土)
続きです。
また文章写しの修行ですが、少し面白い写し方もしてみましょう。
それは、名前だけを変えてしまう、という方法です。
〔ここからは、池波正太郎氏の「剣客商売」からの引用〕
つぎの、渋谷寅三郎は三十五歳。
これも主人もちではない。出生もよくわからぬ。知っていたのは亡き師匠の井関忠八郎のみであったろう。
渋谷は、井関忠八郎が遠州・相良へ住みついたころ、早くも傍につきそっていた。
〔はい、ここまで〕
これを、たとえばファンタジーふうのキャラの名前や世界でかえてしまいます。
つぎの、ハーリーは三十五歳。
これも主人もちではない。出生もよくわからぬ。知っていたのは亡き師匠のクレイのみであったろう。
ハーリーは、クレイがエンリッツ王国の港町・サーベイへ住みついたころ、早くも傍につきそっていた。
さらに、物語の雰囲気にあわせた、あるいは自分なりの文調にします。
もう一人はハーリー、三十五歳になる。
彼も主がいるようではない。出まれもよくわからないいでたちだ。彼についてあれこれと知っていたのは、亡き師匠のクレイのみだったろう。
ハーリーは、クレイがエンリッツ王国の港町・サーベイへ住みついたころ、早くも傍につきそっていた。
名前のセンスはうんぬんしないでください。咄嗟に適当に入れただけです。
PCには置換機能もありますから、どこかのサイトから好きな作品を拾ってきて、それの名前部分を自分で作ったものと置き換えて読んでみましょう。
これで何がわかるかというと、その作品の文章そのものの面白さです。
その世界やキャラクターに馴染んでしまうと、それが面白くて先に立ち、物語そのものは後からついてくるようになりますが、名前を入れ替えてしまえばまるで別の作品になります。
とたんに面白くなくなるものもあるでしょう。
ですが描写や表現のしっかりした作品でこれをやると、「世界というものはこうやってつくりあげるのか」とはっきりと見えてきます。
これは、面白い時代物の作品を読んでいたときに思いつきました。
なになに町のなんとか小路を右手に入ると、柴田なんとか様のお屋敷の土塀が続き、塀の向こうからこちらに顔を出している松の枝からは、なになにの鳥の鳴き声が……、と丁寧に描写してあり、それは現代の私たちからすると具体的に想像するのは非常に難しい情景なのですが、これが、その世界の雰囲気、リアルさをかもし出してくれます。
それだけ写実的で実際的な描写を、自分がなにも見ずにできるか、といわれたら、困ります。
それほど鮮やかな情景というものは、私の脳に見えていません。
それで、借りてみることにしたのです。
結果、これは「描写力」というものを養うのに面白い、と思ったわけです。
だから、できるなら描写のしっかりした、くどくもなくあっさりとしすぎてもいない、秀逸な作品を使ってみるといいでしょう。
自分の作品に足りないものがなにか、見えてくるかもしれません。
たとえばそれは、情景描写かもしれないし、人物の心情かもしれない。動きかもしれない。
あるいは、多すぎるものがなにかが見えることもあるでしょう。
ふと気まぐれに、昨日分の塾小説版をPSOキャラにかえてみましたが(伊達→タイラント、虎丸→ヴァン、羅刹→カルマ)、……自分のモノ使ってやったって、なーんにも文章的には、面白くありません。
ただ、タイvsカルマで、炎の中の決闘、なんてシチュエーションそのものは、私がこれまでに考えたこともないので、なかなか面白かったりします。伊達の味方である虎丸の部分を、二人の弟であるヴァンにしてみると、心情も違ったように想像できますしねぇ。
まあ、たかが真似(模倣)ですけど、創造のための基盤は、必ず模倣にあります。意識していなくても、聞こえてくる言葉を頼りに日本語を覚えて育ったこと自体からして、もう模倣です。
いろんな言い回しや表現、単語、熟語を、自分のキャラが言ったようにしてみると、他人の言葉として見るのとは、少し違って見えたりもするわけです、はい。
2002年7月14日(日)
模様替えてみる。
いや……そろそろトップの写真替えようかなー、と思っただけだったんだけど、気が付けばデザインしなおしてた(死
なるべく、スクロールさせなくてもすべてのコンテンツに行けるようにしたい、というのがあって、それを念頭に、最近拾ってきた壁紙なんかを使いつつ、うらうらと。
気が付けば2時間くらいたってんじゃんよ。
途中なんどもわけの分からんエラーくらいつつ、強制終了の憂き目に遭いつつ、最早その程度ではへこたれません。マメに保存するクセついてきたしな。
とりあえずこれで、総合トップ、PSOトップ、ROOKIESトップ、その他トップは体裁が整った。次は男塾トップ。……いや、すんません、移動すらしてないね(汗
あれだけの話数になると、美しくデザインしつつ、なんてのは私には不可能なんで、とにかく並べることになりそうだ。
下手すると、その他の中から更に版権モノでコーナー作れそうな気配もなきにしもあらずだし(サムスピ)、オリジナルの中で連載ものというか、シリーズものが二つほど出てきてるし……風呂敷広げるだけ広げて、収拾つくのか、この巣……。
2002年7月15日(月)
男塾のトップもやっとそれなりの形に整えた。
できるなら、そのジャンルの中のもの全て、トップに合わせてデザイン的に統一したいんだが、それは死ぬほど手間なので、やらない。
気が向いた時に、気が向いたところだけ、やるかもしれないが。
ついでにいろいろと塾のほうの絵を入れなおした。それまでmy roomにしかなかったものを、展示場に移動させたんである。
更にこっそりと、新しいイラストも追加。
いやー、誰にも気兼ねしなくていいとなると、こんなにはかどるもんなんだね、作業(爆死
あーそーさ、現在うちに一人だけなのさ。
この気楽さがなけりゃ、延々と寝もせずに、ゲームやったり更新したり、してられないさ。