2002年4月2日(火)
「ニンゲンカンサツニッキ」
もともと私っつー生物は、口だけは多少立つところもあり、実際の本人はどうあれ、人からはそれなりに頼れそうに見えるのか、相談を受けたりすることが多い。(よくよく付き合ってみるとアテにならんことは分かるだろーが)
あるかたへのメールにはちらっと書いたが、それプラス趣味的なことがあって、ここのところ、半カウンセラーみたいなことをしていた。あまり詳しくは知らないが、そういう職業にもし免許とか資格が必要なら、その単語は使わないでおこう。要するに、付き合いのない相手の相談に乗る、ということを何度かしていた。
人の悩みや迷いとゆーのは、言うまでもないがそれぞれだ。
私にとっては大した事がなかったり、「こうすりゃいい」と思えてかつ行動に移せることでも、その人の性格とか心情では、どうしても難しい問題、というのもある。
そういうのに、答えはあげられない。
そういう答えは、あげるものじゃないし、あげたくもない。
うまくいかなかった時に、「あんたのせいだ」と責任転嫁されるのは御免なので、私は絶対に「どうすればいい」とは言わないし、「どうすべきだ」なんてことは尚更言えない。
ただ、自分なら出すだろう答えを教えてあげるだけであったり、あるいは、話すことでその人のもやもやした思考を、少しでもすっきりと整理する手伝いをするだけである。
んでもって「答え」は、本人に作ってもらうしかない。
しかし、相談を受けるといっても、人の言葉と本音、さらには本人が信じている本音と本物の本心が、無意識に食い違っていることがあるから大変だ。
口じゃそう言ってるが、というのなら話を続けていけばなんとかなることが多いが、本人が自分の本心に気付いていないとなると、難題になる。
私の本心はこう、と信じている・思い込んでいると、それを覆すのは、他人にはそう簡単にできることじゃない。まして、その人の本心が何処にあるか、本人にさえ確かではないものを、他人に「こうだ」と見抜けるはずがない。(たまたま当たることはあっても)
だから最終的には、本人の悩みは本人に結論を出してもらうしかない。それも、どこかにある絶対に正しい答えを見つけるのではなく、正しいと信じて行える答えを、自分で作って決めてもらうしかない。
実は他に本心があるのかもしれないけど、とにかくこれが本心だと信じたことに従って、それに応じた答えを自分で作って、自分でその決断の責任を引き受けてもらわなきゃ、困るんである。
第三者っていうのは、たとえプロのカウンセラーとかでも、あくまでも「手伝い」だ。過剰な期待はしちゃいかん。ましてやアマチュアやその辺の阿呆烏には、期待なぞするだけ無駄だ。それが賢い相談の仕方というものだ。よし、逃避完了(最低
で、たとえプロのカウンセラーでも、相談役ってのはあくまでも悩んでいる本人の補助でしかない。
悩みとか迷いを解決するためには、自分がどんな人間かを見つめて、そんな自分が何故苦しんでいるのか、なにが嫌なのか、それを見つけ出し、だからどうしたいのか、どうすべきなのか、何故そうしたいのか、したくないのか、一つ一つ掘り出していくしかないんでないかと思う。
もちろん、その手助けを他人に頼むのは有効だが、たとえて言うなら、他人の手というのはあくまでも穴掘り作業、発掘作業でしかない。出てきたものの価値や意義を決めるのは、その所有者である本人以外の誰でもないのだ。
職業カウンセラーとか、余裕があるからやってる相談役なんて人間は、悩める人の「手伝い」だけのために、そこにいるんである。本人の代わりに何かを決めるのは、その人たちの領分じゃない。
社会とか世間とか現状とかを気にする前の、ものすごく率直な感情とか心の動きを知り、それがいろんな束縛(法律とか倫理とか人様の目とかいろいろ)を受ける中でどんな感情を生み、どういう言動を生み、今に至るか。
それが少しでも見えてくれば、今自分のいる場所が、どんなもので成り立っているかも見えてくる。それは、道が見えてくることでもある。
……んだが、そんなものは自分の情けない面とかも見ていくことになるから、あまりいい気分じゃないし、冷静に自分の長所と短所を受け止められる人以外、やらないほうがいいかもしれんのだが……だからこそ、相談役がいるのかもね。
誰かと一緒に探しながら、慰めてもらったり言い訳をもらったりしながら、少しずつ、自分のいい面も悪い面も認めていく、というか。
んで、それを手伝ってあげられるのが、いい精神科医とかカウンセラーなんだろな、と思うわけさ。
おんや?
えらくまたもっともらしいこと書いているね、己。
けっこう断言気味に書いてるが、こんなものは、やはりあくまでも、私にはこう見える、というだけのことだと念のため断っておこう。
かつ言えば、ここでどんなにもっともらしいことを言えたところで、実際に誰かの相談を受けたとき、その人にとって有益な助言をあげられるかどうかとは、別問題である。
しかしまあ、ちまちまと人の話を聞いていて思ったのは、悩むのはいいが、「どうすべき」ってことにばっかりこだわって、世間的に正しくあろうとして、自分をすり減らしてくことなんてないんじゃないの? ってこと。
そんな「すべき」ばっかり大事にしてたら、そりゃ誰からも嫌われはしないだろうし、のけ者にもされないたろうけど、それは「都合のいい人」だからだぞ。
我慢して頑張って無理してこらえて、その挙げ句、「使い勝手のいい人」にされて、それでいいのか?
思い悩んで暗くなって、つらい思いしてる人ほど、そういう規範に縛られてるような気がする。
そんで、不安はあっても、明るく「どっちのほうがいいか迷ってるんだ」と相談してくる人は、「すべき」より「したい」を優先してるから、前に進めるんじゃないかと。
ちと話は逸れるが、そういう意味では「私はこれがしたい」とはっきりしたものを持っている人は、強いね。絶対に譲れないくらい、自分にとって大事なものが何か分かっていれば、それを中心にして考えられるから。
前回の話にも通じるが、世界の中で人間は小さな粒だけど、人間自分自身も一つの大きな器で、その中にいろんな要素が粒としてつまってたり、漂ってたりする。そんな中、「私はこれがどうしても好き」とか「これがやりたいんだ」という思いは、その人にとっての「核」になる。「神」の位置に当てはまる。
神を信じる者が強いのと同じように、「己」を信じる者も強い。
ただ、盲目的に狂信するあまり、己のしていることがなんなのか、見失ってしまう可能性も、あるにはあるが。
ま、悩みとか迷いということに関して言えば、そういう「譲れないもの」がひとつでもあると、それを基準・中心にして周りを組み立てられるから、少しはマシかな、という気がするのだった。
なんかまとまらんが、そんなのは毎度のことか。
そんでまあ、こんなことをつらつらと考えてみた根本にある思いつきは、下参照。
ちょっともっともらしく書いてみた(阿呆
今月の教訓:
貴方を愛し大事にしてくれて当然の人がいるとしたら、
それは友人でも家族でも恋人でもない。
ただ、貴方自身だけである。
だから貴方は貴方を愛し、大事にして良いのだ。
2002年4月3日(水)
「ニンゲンカンサツニッキ」
バカげた話だと思った。
私が言われたわけではないが、言われているのをハタから見ていて、思わず、ものすごく口を挟みたくなった。
しかし、そんなことをすれば立った波風が暴風雨時の沖なみに激しくなることは目に見えているので、やめておいた。
やめておいて、あとで、言われていた人と、少しだけ話をした。
「うっかり忘れた、って、誰があんたの尻拭いしてると思うの」だとさ。
そりゃね、自分の仕事が忙しい時に、うっかりミスのせいで余計な仕事までさせられて、大変で、苛立つ気持ちは分かるよ。
分かるけどさ、じゃあ貴方は、他の誰にも何も迷惑かけてないと言えるのか? と思うわけである。
見えてないんだな、と思う。
自分自身のことが。
誰しも、自分のことさえきっちりと把握しているわけではないけれど、それにしても、そんなことが言えてしまうほど、自分のことを見ていないんだな、と。
なんか、腹が立つとかムカつくとか呆れるとかを飛び越えて、そんなことを言ってしまう人が、憐れになったよ(←ある意味、腹を立てるより最低&屈辱的な反応
仕事にせよなんにせよ、人と協同で何かを行う時、集まる人の能力とか性格はさまざまで、自分の思うとおり、期待するとおりには事が運ばないことは、多々ある。
学生なら、文化祭とかでもいい。なにかそういうのの準備をしていたり、あるいは出し物の練習とか、あるだろう。
社会人やプーなら、日々の仕事がそうだろう。
用意しておく約束のものを忘れられたとか、その人だけがうまくできずに全体が遅れ気味になるとか、「誰かのせいで」うまくいかないことなんか、ざらにある。
そういうのに出くわすと、たしかにそりゃニンゲンだもの、腹も立つさ。苛立ちもするさ。呆れもするけどね。
けど、「じゃあ自分は?」と問い掛ければ、そこで本当に腹を立てられるだろうか。
何も忘れたことはないのか。誰にも迷惑をかけたことはないのか。自分で「ない」と信じていても、他の人にとれば何か厄介がられていることがあるかもしれない。
「そのこと」は完璧にできたとしても、では他の全てのことも完璧にできるのか。今までは何一つミスがなかったとして、これからも絶対にミスはしないといえるのか。
全てに「私はパーフェクト」と間違いなく言える人。
ンなヤツいるわけねえだろうがよ、え?(突然ヤサぐれる
「おいおい勘弁しろよ」というような、誰かのミスのせいでこっちに回ってきた面倒。
出会ったら、「まあ、私もどっかで誰かに迷惑かけてるわけだしな」とさばいてやろうよ。
毎度毎度、毎回毎回繰り返されるなら、責める前に、うまく注意してやろうよ。
というかな。
人を責められるほど自分が偉いと思うなら、そんなに偉いんなら、そんなに立派なら、他の人の肩代りや尻拭いくらい、ヘラッと笑ってやってやれるもんじゃなかろか。
「使えない」人をそうこき下ろすのは、こき下ろす本人が無能だからだ。「使えない」と人から見向きもされない道具でも、才能のある人は、それをうまく使いこなす。本来の目的にかもしれないし、別の用途にかもしれないが、とにかく、「使えない」と捨ててしまうのは、自分が使いこなすだけの力がないからだ。
ミスをする人がいて、そのミスに腹を立てられるほど自分がしっかりしてるなら、ガタガタ言わずにこなしてやりゃいいものを、文句を言うのは結局、大してしっかりしてもいないからじゃあないのかい。
パーフェクトなモノが存在しないとしたら、大手を振って人の欠点を責められる人もいない。
注意を促し、あらためるように諭すことはできても、問答無用で責められるもんじゃない。
だから、逆にこうも言える。
そして、私は言ったわけだが。
誰かが貴方のミスを尻拭いしてるのは本当で、大変かもしれないけど、貴方も、誰かの尻拭いすることもあるんだから、それでいいんでないかえ、と。
協同作業なんてのは、みんながそのつもりで、できる人ができない人の部分を補って、それをうまく回せれば、一番はかどるものだと思う。
なるべく迷惑かけないに越したことはないが、かけてしまったら、その分、誰かのフォローを黙ってしてあげればいい。
それでみんなが許しあって、支えあえば、それが理想ではないだろか。
パーフェクトなニンゲンなんてどこにもいないなら、小さなミスを細かく責め立てるのはバカげてる。大きなミスも、起こったあとでただ責めたってなんにもならん。次のミスをおかさせないためにこれからできること、をやるのが本当に利口で、かつ優秀な人だ。
もちろん、上に立つ人、共にやる人、いつもいつも、そんな理想的に動けるわけでないのも、同じ理屈で、仕方ない。ニンゲンだもの(は?
ということは、問題は、そんな考えなしというか、憐れなことを口走ってしまう人をどうすればうまく動かしていけるか、という、……おい待て、結局私(や周囲)のところに来るわけか。
………………。
よし。
パーフェクトなニンゲンがいないのと同じように、パーフェクトな集団も存在しないとすれば、こういう軋轢だの揉め事というのは絶対について回るものだ。
だとすれば、肝心なのは、理想的なものを目指すことではなく、不完全なその中で自分が何をするか、にあるハズ。
はっきり言って、年下の上に後輩では、偉そうなことを言っても聞いてもらえるとは思えないので(つか、聞き入れてくれるほど謙虚というか、フラットな人なら、ハナから暴言吐かんわな)、被害に遭う人を宥める方向に回るべきだろう。
……なんてね、現場でそこまで考えられたら、私、苦労しません(自滅
だからまあ、考えをあらわしておくことで、ちったぁ理性的に現場をカンサツしようか、というだけである。
まあでも、なにか人と作業しててうまくいかないことがあった時、「なんでやってないんだ」とか腹を立てたって、気分良くない。怒るとかいうの、怒られるほうも嫌だが、怒ってるほうだって、気分は悪いわけだし。
だったら、「まあ、あいつも同じこと思ったことあるだろな。俺も気付いてないことあるだろうしな。だったら文句言えないよな」とでも思っておけば、こっちもイライラせずに済む。
相手の人にできること、自分にできること、違うんだしね。
そんなわけで、いきなり今月の教訓パート2(ぉぃ
・貴方と私は歯車同士。
貴方に足りない部分に私の余分がおさまり、
私に足りない部分に貴方の余分がかみ合って、
初めてきれいに回りだす。
そして一流の職人は、
かみ合う歯車を見分けるもの。
2002年4月15日(月)
「ニンゲンカンサツニッキ」
先日、とあるお嬢さんに言われて思ったことなぞ少し。
毎度ながらバイト場でのことなんだが、こんなことは職場だけでなく、いろんな場面であることだと思う。
具体的な話はしないが、とにかく腑に落ちない、合点がいかないことがあって、「こうだと思うんだけど」ということを一頻り主張したあと、「学校の友達にも聞いてみたけど、みんなそう言うよ。絶対あっちがおかしいって」と付け加えた。
民主主義的に、多数決ということか。
数が多いから正しいということか。
最大多数の最大幸福だったか、昔からあれこれといわれていることだし、より多くの人間にとって納得のいくことが正しいとされる社会だから、そういう決定方法は間違いとは言えない。
が、それはありとあらゆる階級、立場の人間の意識を平均した場合の話である。
なにか嫌なことがあったり、困ったことがあると、身近な人に相談したり愚痴ることになるのは、問題ない。自分一人であれこれ考えて煮詰まってるより、誰かに話してすっきりするほうが健康にもいいというものだ。
しかし、よー考えてもみるべしよ。
目の前にいて「こうだよね、こう思うでしょ」と憤慨している相手に、「いや、それは違う」なんてきっぱり言える性格の人間ってのは、日本人には圧倒的な少数なんではないか?
ということはだ。
尋ねた友達全員が「そうだね」と言ったからといって、当人の主張が正しいわけではないんである。
「それはちょっとどうかなー」と思っても、「そうじゃないだろ」なんて言って余計に怒らせるよりは、「うんうん」と言っておくほうが無難だ。
あれこれと偉そうに言える立場でもないしな、と思えばあえて反対の意見を語るのも心苦しいだろう。
だいたい、質問のしようからして、「どうなんだろう?」というようなあらゆる選択肢に対して平等な態度ではなく、「こうだよね」と既にどれかに肩入れしてる様子である。
よっぽど信頼しあっている間柄とかででもないかぎり、「違うと思うな」とは言いがたいものである。
そのことに気付かずに、「みんながそうだって言った」なんて言ってたって、そんなものは正当性を証明するのにはなんの役にも立たんのだ。
自分の意見はできるだけ出さないで、まるで関係のない第三者の問題のように話して、尋ねてみるといい。
それで初めて、その本人の意見が聞けるんじゃないだろうか。
あえて自分は違うと思う意見のほうを、あたかも自分の意見のようにして口にし、「そうじゃない?」と促してみるといい。
十中八九、「そうだね」という答えが返ってくるぞ。
もちろん、誰かに尋ねるまでもなく、「どう考えてもそりゃ違うだろ」なんて問題を扱う場合は、そうはならない。
目の前の個人の意見が社会全体のルールなどに反していれば、社会に反することを懸念して、「そうじゃなくてこうだ」とくらいは言うだろう。
が、なにが正しいかなんてその人次第のような微妙な問題、特に感情に大きくよってくるような問題の場合、往々にしてこういうパターンになりがちである。
数を頼んで自分の考え方や感じ方を正当化するようなやりかたは、その時かぎりの錯覚で終わる。
単に「そうだね」と言ってもらって安心したいだけならいいが、それを楯に論理や主張を押し通すことは易しくない。
愚痴ついでに「うんそうだね」と慰めてもらえればそれでいいだけならともかく、そんなところで得てきた「イエス」を、公平な多数決の中に加えて息巻いたって、公平な立場にいる第三者には破綻が見えるもんだろう。
自分が欲しいのは慰めなのか正当性なのか、せめて自覚していたほうがいいと思ったりしたのであった。
2002年4月16日(火)
「ニンゲンカンサツニッキ」
最近、こんなとこであれこれ書く以上、できるだけ自分の言動にも注意を払おうとしているんだが(払っている、と断言はできん!←威張るな阿呆)、そんなこんなで、自分があの時した反応、というのを振り返ることも多くなった。
相変わらずあれこれとご忠告の多い環境で、話を聞きながら、いくらかは注意深くなったかもしれない。
具体的に言えば、「そういうところもあるんですか」という見方。
何もかもを自分の目や耳で確かめるまで信用しない、というのではなんにも分からんし知ったことにもならない。というわけで、「あの人はこの人にそう思われるようなことをしたことがある」という事実だけは汲み取っておくのである。
なんか立派なことしてるようだが、こんなものは気の持ちよう一つ、ただこの言葉を知っていて、なにか悪いことを聞かされたときに意識するだけで可能なことだ。
というか、もっと人間できた人なら、こんな手間かけるまでもなく「そんなに悪く言わなくたって」と自然に心を痛めるようなものである。
毎度のこととは言え、己がけっこう仲良くしてきた人について、「あの人がいるからみんなキーキーしてくるの」みたいなことを言われれば、「おいちと待ってくれ」とは思うさ。
聞かされた話には、納得のいくところもあった。だから、「その点はたしかに困ったもんだね」とは思うが、なんつーか、その欠点だけでその人の人格全部否定するような言いようには、まいった。
迷惑をかけられて、イライラさせられて、「キーッ」となるのは分かるが、そうなる原因はその人個人にしかないわけじゃない。
うまく注意してやれない周囲にも問題があるだろうし、たとえばヒイキに見えるようなことも、それには理由があるからそうなんだし、ヒイキのように見えているそれも、欠点を許されているのではなく、実はただ「言っても無駄だ」と放り出されているのかもしれないんだし。
とまあ、自分に関わってこないことなら、発想を限定させずに見ていることは、なんとかできている、現在は。
しかし自分のことになってくると、こう客観的にもなってられんのだろうなぁ……。
つい似たような方法で正当化しようとしてみたり、相手への配慮が足りずに狭い視野で判断くだしてたり。
まあ……聖人君子になんて、どう足掻いたってなれないし、なりたくもないさね。
ただ、自分が社会の中で生きていくのに、少しでも気楽なスタンスを守りたいと思えば、無駄に腹立てるようなことは、少ないほうがいいというだけのことさ。
そのためには、嫌いなものとか人は、少ないほうがいい。
ただそれだけのことだぃね。
欠点とか困ったところは、誰にだってある。それでその人全体を判断してしまわず、「そういうところもある」程度に思っておいて、他の要素を見る余地を自分の中に残しておいたほうが、人のためより自分のために、いいんでないかと思ったりしたのさ、今回は。
2002年4月21日(日)
「心のしおり by Lady-R (or NEW-Type Rosa)」
(Barの相手役であるLady-R、あるいは新設定のゲーム上でのRosaによるニンゲンカンサツニッキみたいなものだと思ってください)
お顔見知りのかたも、今夜初めてお会いするかたも、今日は少しわたくしのお話に耳を傾けてくださいませ。
わたくしは……Bar 〔La Lune〕のお相手役をつとめておりますLady-R、あるいは、PSO上でまた性格設定を変更されたRosaですの。設定変更の理由は、「バカなしゃべりはAS.だけでいい」とのこと。……可哀相な気もしますけれど。
ふとした折に、しみじみと心に浮かんでくることなど、思いつくままにお話させていただきますわ。
今夜は……と申しましても、またこのような機会があるかは分かりませんわね。これきりになるかもしれませんけれど、それであればなおのこと、今夜束の間の逢瀬と思われて、ご辛抱くださいませ。
物事の、人と人との巡り合わせというものは、あらためて考えてみればとても不思議なものですわね。
わたくしたちのオーナーがインターネットをはじめたのは、世間の風潮からはずいぶん遅れてのことで、2000年の10月ですのよ。
興味のあるソフトがいくつか溜まったため、ドリームキャストを購入したのがはじまりでしたわ。
「PSO」は、情報が出回りはじめた頃に雑誌で見た時は、あまり興味もなかったようですの。
けれど、ふとした気まぐれのようなものなのでしょうね。
購入したのは発売日当日の12/21。
オンをやるつもり、最初はなかったそうですわ。
けれど一週間もしないうちに体験してみたくなって、初めてつないで、一ヶ月もしないうちに、毎晩接続する始末だったとか。
それで昨年二月の終わり頃に、Tyrant様、当時はRoar様でしたけれど、彼やU-SAM様と知り合うことができました。
PCを入手して、イサオが提供しているHP作成システムを利用する気になったのが、サイト立ち上げの直前、2001.5月。およそ一年前になりますわね。
それから数ヶ月のうちに、鬼更新なんて無茶なことをするようになって……質はともかく、作品量という点でだけでなら、男塾サイト様のお仲間入りをさせていただけるまでになりました。
管理人と管理人、あるいはお客様として、当り障りのないお付き合いをしているかたのほうが多いのですけれど、中にはその枠をはみ出してお話をさせていただけるお友達にもたくさん出会えました。
人と人とがなんらかの形で出会い、親しくなることもあれば、距離は変わらないこともあり、疎遠になることもある。
当たり前のことなのですけれど、あらためて考えてみますと、とても不思議に思えますの。
どこか一つ、なにかが違っていたら、親しくお付き合いさせていただくようにはなれなかったかもしれません。そう思うとなおさらですわ。
公式BBSを縁に知り合ったTyrant様とU-SAM様ですけれど、もし彼等より先に他のかたが部屋に入っていらして、満員になってしまっていれば、彼等とは出会えなかったでしょう。
Tyrant様がBBSを見ていらっしゃらなければ、そもそもおいでにならなかったのですものね。
そうすると、彼を検索してやってきたU-SAM様とも会えなかったことになります。
たまたまあのロビーにβ様がおいででなく、彼とRoar様の間にほんの小さな接点がなければ、お話はしなかったかもしれません。
オーナーが烏屋を開店さなければ、出会えなかったかたがたはたくさんいらっしゃいますわ。
管理人様の実名を挙げてしまってもよろしいのですけれど、男塾関係のかたは、PSO関係のかたより広い範囲においでですので、お名前が出る、出ないで失礼になりかねませんので、こちらはやめておきますわね。(PSOのほうは、非常に深いお付き合いのあるかたと、それ以後に知り合ったかた、疎遠になってしまったかたがはっきりしているので分かりやすいのですけれどね。)
けれど、今また毎日のようにメールをやりとりさせていただいている、オーナーいわくの「ハニィ」様や、他のかたとはできないような赤裸々なことも真顔で語れるお姉様、可愛い妹たちのようなかたがた、今は少し疎遠になっておりますけれど、ゆっくりとメールで語り合ったこともあり、また折りがあればそのようにお話したいと思うかた、知り合うことができて良かったと思うかたがたは少なくありませんわ。
けれど、そんな皆様とも、どこか何かが違っていたら、言葉すらかわさずに終わっていたかもしれません。
おかしな話ですわね。
オフラインの現実でも、毎日様々な人と出会っておりますし、その中で同じように、親しくなることもあれば疎遠になることもあります。
それなのに、何故かオンラインの現実のほうに、より強くそういったこと……一期一会、という言葉に近いものを感じるなんて。
でも、なんとなく思いますの。
昔、ずっと小さい頃、まだ小学生くらいだった頃というのは、自分の家と学校と、そこにいる人たちが全てだったでしょう。それに近いからじゃないかしら、と。
大きくなるにつれて、世界は広がりましたわ。
けれど、その分お付き合いというのは希薄になってしまったのかもしれません。
自身の感情や気持ちのまま、皆が素直に、よりピュアな部分をぶつけあっていた幼少時代から、だんだんと思うことも考えることも、要求されることも複雑になっていって……。
たとえ毎日顔を合わせてはいても、毎日心を合わせてはいない。
そんな毎日。
オンラインの世界というものは、趣味で運営する無料サイトの場合、ほとんど物質的な利害はありませんし、ただ楽しみだけを求めて彷徨うことができますでしょう。
たとえ訪れていても、そのことを管理人に知られずにいることもできますし、来ましたと告げることもできる。自らの意思によって、そこにどれくらい、どんな「自分」を出すかを決めていける。簡単に消えることもできる。
そうですわね。透明人間として歩きながら、気に入った場所でだけ、出現できるようなものかしら。
お話、少し分かりづらいかもしれませんわね。申し訳ありませんわ。
けれどもう少しお付き合いくださいませね。
目だけの存在となって世界を探索し、自身の意思によって姿を表すことができる。
それがオンラインの世界だとすれば、だからこそ、いたくもない場所、苦手な場所に、いろんな言葉や装備で身を固めて、無理をしてまでいることはありません。
そこがオフラインとの最大の違いではないかと思いますの。
ですから、せっかく姿を表す時には、オフラインよりも少しはピュアな自分でいられるのではないでしょうか。危険の少ないところ、ここならばいいと思えたところ、そんな人の前にだけ、偽るところも鎧うところも少ない自分を見せられる……。
いいえ、皆様がそうだとは申しませんわ。
ただ、わたくしは、そんな気がいたしますの。
いくらかは見栄や打算もあるでしょうけれど、オフラインよりはずっと正直でいられる。お互いにピュアな部分で確認しあうから、これほど短い間にとても親しくなれるのでは、と。
そして、よりピュアな自分で触れているからこそ、強く心にも残るのではないでしょうか。
いかがでしょう。
これは、わたくし一個人にしかあてはまらない感覚なのかしら。
わたくしが今夜語ったことで全てとは申しません。それ以外のさまざまなことが、オンラインの世界にありますわ。これはあくまでも、一つの見方、受け取り方に過ぎません。
わたくしが願うのは、わたくしの拙い言葉をきっかけに、皆様のお心になにかが浮かぶこと。
誰か仲の良いお友達と出会われた時の思い出、ご自身にとってのオフライン・オライン、心、それとも言葉。
ゆったりと甘い思い出にひたりたいかたには、シンデレラにほんの少しクレーム・ド・カシスを加えて、深くご自身を確かめたいかたには、レモネードにミントを浮かべてお出しいたしましょう。なにもかも忘れて眠りたいかたには、ホット・エッグ・ノッグをさしあげましょう。
そして皆様、良い夢と、明日を……。
2002年4月22日(月)
「カエル……」
うちの周りというのは、ここ5年以内くらいに建った新しい家か、さもなければ田んぼである。
元は田んぼだったところを潰して、住宅用地として売っている場所と思われるんで、必然的にそうなる。
そんなわけで、カエルがうるさい。
夜中にふらふらと散歩しようものなら、右から左から、カエルの鳴き声がする。
どうも右の田んぼからは大合唱が聞こえるのに、左からはソロしか聞こえない、などという場面に出くわすと、ひょっとして仲間はずれか、などとバカなことを考えたりもする。
夜の散歩も悪くはない。
ところで地主さんには、残っている田んぼも、やはり土地のまま売りに出すか、あるいは建売、賃貸にするつもりがあるらしい。
実際、数年前はもっとカエルがうるさかったのだが、何軒か家も建ったから、これでも静かになったほうだという。
ということは、また家が増えて田んぼが減れば、カエルの声はもっと小さくなるのだろう。
……住む場所を奪われ、カエルはどこに行くのだろう?
ある日巨大なバケガエルと化して、一帯に住む人間を襲い始めるとか、近所の人間が一人、また一人と消えていくとか……。
すまん、カエルくんたち。
少しは深刻に君たちと人間の共存、あるいは人間というものについて考えられればいいんだが、私の頭には全てネタにしかならないらしい……。
2002年4月23日(火)
政治に関してあれこれ言えるほど知識があるわけじゃないが、感覚として、ここのところ「なんか違うよなー」と思ってたことがある。
小泉内閣の支持率なんだけど、今年に入ってからガタ落ち。
そんなことはともかくとして、もともとの異様に高かった支持率とか、その頃の小泉さんの扱いとかのほうが、間違ってるんじゃないかと思えてならんのよ。
だいたい、「なにかやってくれそうだから」なんて、言葉や雰囲気なんかから、勝手に推測して期待して支持する、なんてのが違う気がする。
もちろん、そういった期待があるのは当たり前だし、それで支持することはいいんだが、「みんなが支持してるし、なんかすごいことやってくれそうに思えるから」と流されて支持した人もかなりいそうでかなわん。
それに、政治家はアイドルじゃない。
実際に行ったことや成果、そういったものが充分に形となって表れてからヒーロー扱いされ、アイドル化するならともかく、「なんかやってくれそう、やる気らしい」というだけで、グッズは出るわジュンちゃんなんて呼ばれるわマキコちゃんなんて言われるわ……。
勝手に異様な期待を寄せておいて、さあ裏切られたとばかり、みんなして掌を返す。
いや、ついていけんリーダーに従うことはないんだが、勝手に期待しておきながら、勝手に期待してた分、やけにチクチクと責めてる気がする。
実利的なリーダーとアイドル・カリスマとしてのイメージとをごっちゃにして政治家見てるようでは、しっかりと自分の足で地に立っているとは言えん。
自分の足で、リーダーたる首相なんかについてくるわけじゃない。
ふわふわ浮いたまま風に流されてるのを、首に紐つけて引っ張るようなもんじゃないのか?
みんながみんなそうじゃないし、きっちりとしろんな情報をもとにして、今度の内閣は頼りになるかもしれん、と期待していた人だって当然いるだろう。
が、メディアなんかの動きを見ているかぎり、どうもなぁ。
なんかやってくれそうだ、と期待するのはいいが、その時点では「支持もしないが否定もしない」というゼロであるほうがいいんじゃなかろうか。
なにかが形になって表れて、本当にやってくれるらしい、と支持すりゃいい。
そういう積み重ねで、国民の80%だのという支持を得ていくもんでは?
つかさ。
勝手に期待されて持ち上げられてアイドル扱いされて、つまずいた途端に針のムシロって、可哀相だぞ。
まあ、アイドル扱いで悦に入ってたようなら、そもいい薬かもしれんけどさ。
政治家は、アイドル(偶像)じゃない。
現実の国際社会だの日本だのの舵をとる、実像のはず。
期待するにしても諦めるにしても、もう少し実利的にいったほうがいいんでないかえ?
などと、政治にはまったく関心も興味もない人間が思ってしまうほど、小泉内閣アイドル化状態はバカらしくて見てられなんだのだった。
2002年4月25日(木)
たぶん、1996年頃に書いたと思われる、自分のメモを見つけた。
もううろ覚えなんだが、中学時代くらいの同級生に会った時に書いたものらしい。
相手が誰かは覚えていないし、名前も出てこない。
ただ、ここに書かれたものは、今の私にもなにか感じるところがある。
そんなものを、たまにはここでチラリと公開。
名状しがたい、曖昧な感覚。
懐かしさではないし、愛しさでもない。
どこか気まずさに似ている。
昔とは違うのだと思う。
変わったのはどちらか? それだけが問題。
会いたかったのか、会いたくなかったのか。
問いたくないとも思うし、話したくないとも思っているのだろうか。
接点を失ったような気がする。
自分と全く違ったものになったのは確かか?
笑顔が本当のものだと思えない。
偽物とも思わないにせよ。
こいつはそういうのが上手くなった。
確かなのは、俺のものではない、ということだ。
およそ10年ぶりくらいに地元に戻って居着いて、何人か、地元の友人とも再会した。
やはり同じような、違和感めいたものを感じる。
長い間失われていた接点を、「昔友達だったしすごく仲良かったから」という理由でまた作り出そうと努力しているような、そんな気配。
極自然に「うわ、なつかしいなー」とはならない。
短くない時間、顔も合わせずにいたのだから、そうなるのは当たり前だろう。
ただ、そこで私はふと思ってしまう。
「かつて友人だった。だからまた付き合う」。そのことに意味はあるのか、と。
ある意味、遠く離れて何年かに一度手紙がくるような、そんな付き合いのままでいたほうが、自然なのかもしれない。
近くにいるから、とあえて会おうとするよりは。
なにせ、10年もすればそれぞれに道はきっぱり分かれているし、この10年の間にそれぞれが築いてきた関係がある。
真っ当な人生歩んでる連中は、もう大半が結婚して、あらたな関係・居場所をそこに持っているわけだ。
たとえば学校で、時と場所を共有していたから築いた関係。
共有することをやめて久しければ、自然に消滅していくのも道理。
もちろん、また関わろうとするのも一つの道だが、正直、これ以上の人間関係は御免だという気もする。
まして……そういう関係の生み出すもの、の中で、かなり見たくないものばかり見て、この数ヶ月過ごしているせいか、どうも……。
私の望むとおりになっていてくれ、などとは言わない。
ただ、幻滅したくないだけだ。
こんな奴になっちまったのか、とかつて好きだった友人を、そんな目で見るのは嫌だと思う。
それくらいならば、距離をおき、時間をおき、微かな気配や言葉の断片に、きれいな思いだけ乗せて交換していたほうがいい。
こんなものは、逃げなんだがね……。
2002年4月26日(金)
みなせさんのサイトで赤石親子を眺めていて思いついた話が一本。
しかし私は、暁・男塾はまったくと言っていいほど読んでいない。
そんなわけでかなりデタラメチックな話だが、久々に、男塾ものでインスピレーションのまま、書ききった気がする。
これは強制的に贈り付けてしまうことに決定。
うちは暁ほとんどノータッチだしね。
それにしても、やっぱり私が「いいなぁ」と思うものは、自然と私を動かしてくれる。
どんなに他の人が絶賛している話や絵でも、「面白くないことはない」という程度で眺めるものとは、やはり違う。
もちろん、そんな「面白さ」は私の感性の問題でしかなく、私にとって「面白くないことはない」というものでも、他の多くの人にはものすごく面白い、いいものだってある。
私の「いいなぁ」は純粋にクォリティなんか見てるものじゃなく、かなりその時々の気分や印象に左右されるんで、作品評価としてはアテにはならないかもしれないが、やっぱりいいものは、好きなのだ。
2002年5月1日(水)
いつの間にか、五月である。
日々それなりに過ごしてしまっていると、瞬く間に時は過ぎていく。
正直、昨年12月にこっちに移転してから、もう丸五ヶ月過ぎてしまったとは思えない。
なにかに集中していると、時が過ぎるのが早く感じられるというが、なんとなく逆な気分だ。
ただ何事もなく、しのいだだけのこの五ヶ月のほうが、はるかに稀薄で、早かった。
こんなんではいかん!
いかんぞ己!!
目標は自分の好きなことやって過労死(をぃ
こんなことではのほほんと残りの人生を余生にしてしまうではないか。
私のモットーは「馬鹿になれなくなったらそこから先は余生」。
まだまだ、自分の時間を余生になんかしたくはない。
2002年5月28日(火)
「絶対的我が儘」
私はあんまり他人の言葉に影響されたりはしないんだが、「なるほどな」と思うところのある言葉に出会えば、そこを支点として考えもする。
つい先日読んだ本は、内容を取り沙汰すればそう目新しくもなく、文章を言えばそう魅力的でもないんだが(決して上手・下手を言っているのではない。かつ、あくまでも私にとっての話)、入ってくる言葉から何かを考え始められる、という一点において、非常に面白かった。
つい、その作家の他の本までめくってみたりした。
金銭的に余裕があれば、買ってるんじゃなかろーか。
それが誰かということはさておいて。
漠然としたいろんな考えが、その本(たち)にあった言葉を切っ掛けにして、頭の中をふらふらと歩き回っている。
それを確固たる自分の意見として口にするにはまだ遠いが、以前から考えていたことと相まって思うのは、「本当に本当であれば、他のなにを厭う必要もないんだろうな」ということ。
その人の中に「これだけはなにがあっても絶対に譲れない」というなにかがあって、それに対して忠実になると、他人の目にはとてつもなく我が儘に映るようになる。が、私は、そこまで突き詰められた我が儘なら、それはいいと思ってる。
それで人からなにを言われても、無視されても罵倒されても、どんな反論を唱えられても知ったこっちゃない、というくらいに「絶対的なもの」があれば。
そして、それにもし自分自身が反した時、ショックでパニック起こすとか泣き喚くとか自殺するとか、もうそれくらいまで極めてしまった我が儘なら、なんか羨ましいとさえ思うんである。
しかし現実の世界でそこまでキッパリした人がいるかというと、まず難しい。
空想の世界でならば、不都合なものは登場させない、とか設定を変えてしまうとか、どれほどでも英雄的にも極悪にもできるけれど、現実世界のさまざまな拘束と、自分の肉体・生命というとんでもない重荷が加わると、そう簡単にはいかなくなってくる。
たぶん、世界的に「傑物」と認められるような大人物は、その我が儘を実践し、多くの人がそれを認めてるんじゃないか、とは思うが。
どうでもいいことだが、「天才」なんて後世になって言われるような人は、才能以上に、努力なんかじゃなく、99%の我が儘を実戦したんじゃないか、とさえ思ってみる。
もう自分でも抑制できないほどの情熱というか、我が儘。それでひたすらに突き進んだだけだから、努力なんてモンじゃない。進めなくて苦しくても、本人に努力なんてものをした意識があったかどうかは疑問だ。必死になって進もうと足掻いただけで、「努力」なんてものはそのオマケ、その形を後から整えて名付けたに過ぎない。
たとえばもう飢え死にしそうな時、10m先に自分の大好物があったとする。死にたくなくて、食いたければ、死に物狂いでそこに辿り着こうとするだろう。そこに障害があったとして、それを越えるためにいろいろと試行錯誤せざるを得ないとして、そこで費やした労力は「努力」なんて言葉で表せるほど理性的なものなんだろーか、ということだ。
私のそんな発想がいくらかでも当たっている(こともある)のかどうかはともかく、なんにしたって、世の中に「傑物」と呼ばれるような人はそういない。
ものすごく好きなもの、実現させたいものがあっても、結局他のなにかにも浮気してエネルギーを無駄遣いしたり、妥協してしまったりして、完全な我が儘には到達できない。
極端な話、私は話を書くことが好きで、そうしている自分が一番好きで、やっちゃいかん、と強制的にダメ出しされれば、ダメ出しした相手を消すくらいのことはやってやるが(憎悪とかじゃないね。たぶん、他の連中に対する威嚇行為としてだろう。あと、障害物の排除も兼ねている)、朝から晩まで、夢の中までそのことに関することだけで動いているかというと、別だ。
それに、「そんなんでこの先いいのか」とか問われた時に、困ってしまうようなことがあっては、完璧ではない。
他の何かに浮気するのくらいはいいとしても(それすらも最終的には本気のもののために利用されるから)、迷いがあったんじゃ絶対にダメだ。
そう思う。
なんの迷いもなく、迷いがあったとしてもそれを殺して、絶対的な我が儘に徹する時、それはもう一種の美学だろう。
いや、美学ってのもその我が儘の一側面だと思う。
自分にとって「美しい」と感じられる様式をひたすらに追求し、それに殉ずる。そしてそれが他人にとっても美しく見える時には「あの人は自分なりの美学を持ってるね」と認められ、他人に迷惑な時には「最低のジコチュー」と言われるだけで。
テキトーにジコチュー、なら誰でも簡単になれるけど、そこまで徹底して貫かれた「俺式」「私式」を持つのは簡単じゃない。
だが私は、どうせならそれくらい、盲目的に邁進したいと思わずにはいられない。
そーして、それを裏切ってしまう自分に溜め息くらいはつきつつ、それを許してしまう甘さを情けないとは思いつつ、深く追及もできないでいる半端者なんである。
自分という存在のインターフェイスとしての「熱意」なんてカワイイものじゃなく、爆発させないことには気でも狂いそうなほどの衝動がいい。
自分で自分に課した「規範」に喘ぎながらもそれを破れずに、破滅していくならいいな、と……危険思想か?(汗
たまに冗談で、「理想は過労死」なんて言ってるが、そういう意味なんだよ、これは。
ゴッホだっけ?
「自分が『画家である』ということに目覚めてしまった」といったような逸話残したのは。画家でなくなることができず、悲惨な生涯送ったとかなんとか。
まあ……生身の生物として生きること、生活すること、他人との調和だのなんだのというものに神経使いつつも、己の道を歩まんとしてうらうら悩んでるのも形式的にはアリかもしれんが、そんなことで疲れるくらいなら、べつの疲れ方してみたいもんだ。
ところで。
「我が儘」も突き詰めてしまえば憧れる、みたいなことを書いてるが、条件はある。
極めて簡単なことだ。
それを貫かれることで私が迷惑しない……なんてことでは、ない。
それを私にも行えと押し付けないこと、だ。
自分一人我が儘になり、その我が儘に従って行動するなら、いいさ。絶対に譲れん、というものがあるなら、押しのけられたって構わん。こっちの譲れないものとぶつかる時には、戦うだけのこと。「悪い」と責めるつもりなどカケラもない。他人のことなんか顧みないくらい、そうせずにはいられない我が儘なら、それが私の我が儘を上回る真剣さを持っているなら、潔く道を譲って、背中を見送ってやろうさ。
が、おまえも同じようにしろ、と押し付けてくる我が儘は、却下だ。
だいたい「我が儘」なんてものは個人の身勝手に終始しているからそう言うんであって、他人に強制するのこそ本人の自由だが、それは確実に他人の「我が儘」を侵蝕する。
自分の道の邪魔になるから、と他人を押しのけるのは、いい。
が、他人を引っ張っていこうとするのは、勘弁してほしい。
「我が儘」なんて言葉で書いていると分かりづらいのかもしれんが、「信念」や「美学」なんてものは、己一人で確立させるものであり、それに他人が追従するか否かは、それ自体の魅力に負うものだ。
言葉であれ暴力であれ、なんらかの形で本人の意思を無視して強制的に我が道に引きずり込むというのは、正しい我が儘のありようを越えている。
それも一つの我が儘ではあるが、美しくない(ぉぃ
つか、他人の勧誘なんかに目がいってる時点で、半端だがね。
これはここまで突き詰められた「我が儘」、つまり「信念」や「美学」によらず、日常の生活でも同じことだけどさ。
2002年5月29日(水)
「i」
そろそろ節目にきそうだし、このあたりで一度、あらためて運営姿勢というものについて考えなおしてみたり。
1年の間に楽しいくらいいろんなことがあって、サイト管理、という一事に関しては、非常に充実していたと思う。
一度なりともメールをかわしたことのあるかた、頻繁に交換してるかた、いろいろとおいでだし、掲示板でのお付き合いのかたもいる。
楽しいことしかなかったか、というとそうではないけれど、公の場にて発言する、ということにより、すべてがなんらかの形でごまかしのきかない教訓として、かえってきたと思う。
そーしてあらためて考えるのは、やっぱり最終的には楽しんでもらわなきゃな、ということ。
シビアな話もネタも小説もBBSでのやりとりも、全て、その時には「うーむ」と考えてしまって、単純に楽しいものではなかったとしても、それが決して「つまらん」ものではないように。
人がなにを楽しいと感じるかはそれぞれだから、全ての人にとっていいものは、絶対に作れないが、内容そのものより、「楽しそうにやってるよな」という雰囲気っていうのは、大事だと思う。
塾では更新されてないけど、更新履歴に次々と変化があるのを見ると、張り切ってやってるんだな、と楽しくなれる……というようなことを言ってくれたかたがいたりもする。
ここにいる私はナマモノで、とりあえず人間という形状を持たされて生命活動しているが、このモニターに現れる時には、常に「それ」を楽しんでいたい。
これがとりあえず今掲げてみる、今年の目標かもしれない。
小説にせよリアルを寝たにした駄文にせよ、しかめっつらで「どうよ?」というのではなく、内容がどんなにシリアスだろうとダークだろうと、それを一つの「展示物」として客観してしまい、余裕をもって問い掛けてみたい、ということだ。
ま、こんなものは宣言したからといってなんになるわけでもないんだが、反省の意味もこめて、書いてみるのである。
2002年5月30日(木)
「夜歩き日記」
本日17:30くらいから21:30まで、ふーらふーらと自宅周辺を徘徊していたのですが(あやしずきる)、それがなかなか発見に満ちて面白かったので、今後もたまにやってみようかと思ったのでございますよ。
今日の散策コースは、家のすぐ近くにある遊歩道めいた公園から、その公演につながっている山。
10年以上足を踏み入れたこともないと思われる山です。小学校の遠足で来て以来なんじゃないか、というくらいだから、下手すると15年くらい無縁ですね。
遊歩道と公園の中間みたいなところをふらふら辿り、だーらだーらと歩いていくと、住宅地周辺から山に近づくにつれ、木々が増えてきます。もちろん人工の公園ですから、これらは植えたものですが、山という木だらけの場所に近づくにつれて樹木を少しずつ増やしていく、という意図があるのでしょう。
未知の左右から張り出してきた緑がいよいよ目立ってくると、やがて坂道にさしかかります。
ここからは本来は樹木だらけだったところに道を通した、ということになるんでしょうか。開発について知っているわけではないので、なんとも言いがたいのですが。
そこを道なりに歩いていくと、四辻に出ました。古墳公園、とか和風公園、とか書かれている看板が立っています。
とりあえず古墳公園とやらを除きにいきましたが、観光地化されているわけでもなく、ただこんもりと盛り上がった丘、というだけ。申し訳程度に立っているガクジュツテキな看板を読んでも、さして面白くはありません。読ませたいなら、面白く書けばいいのにね、とか思いつつ、古墳が発見、整備されたと思われる年の記録を見つけます。昭和28年。今から50年くらい前です。看板そのものはそれ以降に取り替えられているらしく、白さもはっきりと、文字もかすれていたりはしないのですが、終戦から10年ばかりの間に、よくこんなものにかまけている暇があったもんだ、と少し感心してしまいました。経済成長には必要のない古墳。観光地にしようもない、申し訳程度の古墳。それでも、好きな人は情熱を持って、世情に背を向けてでも取り組んだのでしょう、たぶん。
それから次は和風公園とかいう方向に行きました。
なんにもありゃしません。
それっぽい川らしきものがあり(ただし水はない)、それっぽい太鼓橋みたいなものがあり、それっぽい東屋みたいなものがあるだけです。詐欺ですね。
それはともかく、東屋のベンチに腰掛けて、一休みです。
出掛けに鞄の中へ適当につっこんできた、落書きどもを取り出してみます。「未来への激闘」(PSO-rパラレル)。……こんなところで読むのに相応しいかどうかはともかく、どうせアテのない散歩です。読み返しつつ、つい二箇所ほどチェックを入れてみました。
それと一緒に重ねてあった、同じB5サイズの紙束。てっきり自分の話をチェック用にプリントアウトしたものだろうと思っていたら、大学時代に押し付けられた「キリスト教信仰概要」なる本のコピーです。ホッチキスで角をとめてあって、見開きを縮小コピーしてるんですが、こんなものをついついと、20ページ分ほど読んでしまいました。ネタになればなんでもいいわけです。「ベンキョウしなさい」なんて言われてこんなものを押し付けられたら、読んだってちっとも面白くないんでしょうが、そういう「ネタないかなー」とかいう視点で見れば、こんなものでも立派な楽しみになります。
それから次は、いよいよ山の上に通じると思われる道を歩くことにしました。
てくてくと歩いていくと、山道の入り口らしき場所には、木の間からポツポツと明かりが見えます。電気の無駄遣いのような気もしますが、シンプルな灯篭ふうの明かりが、道に沿って並んで要るようです。無駄遣いだよなー、と思いつつも、だったらこの風情を楽しんでやることだけが有意義に利用するということで、悪くない気分で上っていきました。
はっきり言って、どこに通じているのかは知りません。適当に歩いていけど、一本道ですし、やがて何処かには出るはずです。
やがて前に見えたのは。
墓地でした。
時刻はそろそろ18:30。まだ明るいとは言え、日暮れの名残も薄れていく時刻です。
しかし、こういうムショーにひたってしまっている気分では、墓地だろうがオバケ屋敷だろうが、ポエムなのです。哲学なのです。
ふと、「うちの墓もたしか、どっかこの山の近くにあるはずなんだが、在り処なんて知りもしねえな」などと思ってみます。それと共に思い出されるのは、今月の5日、つまり子供の日にかかってきた一本の電話。それはお寺の住職さんからで、「今日はお婆さんの祥月命日ですけれど、おうかがいしましょうか?」という内容でした。そんなことは私一人では決められません。というか、決め手もいいんでしょうけれど、作法も知りませんし、包んで差し上げられるお礼もありゃしません。その時両親は、というと、旅行中でした。
……報われませんね。
うちのばーちゃん、そしてじーちゃんの一生って、なんだったんでしょうか。
もともとがそういう行事になんて欠片ほどの興味もなく、盆も彼岸も知ったことか、という系譜ならばともかく、以前はちゃんと、「お彼岸だからお墓参りへ」と私なんぞも無理やり連れて行かれたものです。それが今や、祥月命日さえ無視される始末。いいえ、たとえばちゃんと覚えてもらっていて、お寺さん呼んでも面倒だし、と思われてるなら、まだマシです。けれどすっかり忘れ去られていたとすれば、ちょっとあんまりじゃないでしょうか。
いや、私も覚えてませんけど、私はもとから、彼岸にも盆にも、墓参りなんて面倒なだけでなんか意味あんのかよ、と思ってたクチですから。それに、父親にとれば実の両親なわけです。それがまあ、きっぱり忘れてお楽しみに旅行なんてされた日にゃ。
それとも、人生、死者、親子、なんてものはそんな程度のものなんだ、とニヒルになるのが正しい現代のあり方なんでしょうか?
薄暗くなってきた世界の中で、それでもまだくっきりと見える、供えられた花の色。色が鮮やかだということは、ここ数日中のものです。ともすると、今日の昼間のことでしょう。そうして訪れてもらえているのは、誰なんでしょうか? つい先日死んだばかりの老人か、それとも前途ありながらそれを失ってしまった若者か。なんにせよ、花を供えてもらえるということが、死んでしまってからも、まだその人が残している価値や意味というものなのかもしれません。そしてその花が枯れていき、取り替えられることもなく忘れ去られると同時に、その人の人生そのものがこの世に存在したことも、忘れられていくのでしょう。
日常の中で、ふっと思い出してもらえる死者は幸福です。幸福もなにも本人死んでるんだから意味ねーだろ、とも言えますけれど、死んでしまった本人には知りようもなくても、それはしっかりと他人によって認めてもらえている存在であった、という証。誰かの中に追憶として刻まれるだけの重みがあったという証。そんなものは、生きているうちにはしかとは手に入らず、死んでしまってはその手すらないものです。ただ、生きている人によって、やっと墓標に与えられる。
それすらもないよりは、ずっといいと思うのです。
だいぶ暗くなってきました。
もっと奥まで歩いてみようかとも思いますが、ただ墓地のまま行き止まりになってもつまりません。方向を変え、下りることにしました。そしててくてくと道を戻りながら、少し高くなった場所にあるお墓を見上げ、思うのです。
20年、50年、80年、あるいは100年と生きてきて、墓の下に入ります。私は幽霊というものは、いるともいないとも信じてはいませんが、もし仮にあの世というものがあり、霊魂が存在し、それは不滅であり、墓の傍にモ残っているものであるとして。
その死者を呼び出して「貴方は満足しているか」と問えば、どのような答えが返ってくるのでしょう。
まだまだやりたいこともあったのに、と? 無念の死に方をして、未練を残している人もいるかもしれません。人生そのものをやりなおしたい、と深く嘆いている人も。
そういうのは、苦しいと思います。けれど、安らか〜に「はい、満足でした」と言えてしまうのも、寂しいと思うのです。
それほど充実していたのでしょうか? 足るを知る、とは言いますが、勝手に満ちたりてしまったせいで、出会ってさえいれば身を焦がすほどに思えたなにかを知らないままになったのかもしれません。
あさましいかもしれませんけれど、尽きない欲望のエネルギーというものは、発露の仕方さえ間違わなければ、花火のようなキレイなものなんだと思います。人間はその欲望によって文明を築き、自然を壊し、どうやら現代ではそのバランスの回復なんて望めもしなくなっていますけど、そんなものは自業自得として、悪いものしか残ってないわけじゃないんですから。
などとマジメなことを考えつつ、たまに立ち止まっては書き付けつつ下りていくうちに、時計の数字は次々と変化し、あたりはすっかり暗くなってきました。それまでは照明を頼らずとも文字が書けたし楽に読めたものが、だいぶ危うくなってきています。
照明器具の傍でつらつらと書き流していると、下から一人のおっちゃんがやってきました。時刻は19:30です。まだ星は見えませんし(視力の悪さは考慮しましょう)、空には明るさも残っていますが、これからは暗くなるしかない時間、一般的な店は閉店へと向かっていく夜に、山の上になんの用なのでしょう?
それを言えば、一人でこんな場所で、ノート片手になにやら書いている私も、彼から見ればかなり「なにやってんだこいつ?」状態なのですが。
ともかく、おっちゃんは私と目が合うと「こんばんわ」と言ってすれ違っていきました。もちろん、挨拶はされたら返すのが基本です。愛想良く「ばわ〜」と返すのは忘れません。けれどそこで、「今からなにしにくんスか?」とか尋ねてしまった途端、あやしい奴になりかねないので、ぐっと我慢します。
そして勝手に思いを馳せるのです。
労働者ちっくな装いに、安っぽいブルーの帽子をかぶったおっちゃんは、何故こんな時間から山をのぼっていくのでしょう?
case1.その先には茶店や売店といった施設があり、おっちゃんはそこの関係者。閉店の確認に行くとか、忘れ物をとりに行くとか、理由は分からないが、これは特別な行動ではまったくない。
case2.日課の墓参り。いつもはもう少し早く来るのだが、仕事の都合で遅くなってしまった。
case3.実は今からとある知人を殺害するため、呼び出したその場所へと向かっている。
case4.実は大ドロボウで、埋めておいた現金を掘り出しにいくところ。道具は昼のうちに清掃係に化けて隠しておいた。
case5.幽霊。
case6.お墓に出る孫の幽霊に会いに行くところ。会うたびに生気を奪われ衰えていくことは承知しているが、この世に他に楽しみもなく、可愛い孫に会うための代価と思い毎日通っている。
case7.夜の日課のお散歩コース。
case8.実は通り魔。しかしこれが初めての決意で、度胸もなく、実際に人に会ってしまうととても実行できなかった。どころか、「もしかして逆に襲われたりして……」と怖くなった。
case9.借金苦から首をつりにいくところ。
case10.山の中か通り抜けたところかは入らないが、この先に住まいがあり、単に帰宅途中。
一人の人間の、どうということもなさすぎる姿は、様々な可能性を秘めているものですね。全ての物事も、これと同じように、やろうと思えばどうとでも解釈できるものなのでしょう、きっと。ですから迂闊に、「これは絶対こうだ」なんて決めてしまうのは、愚かというものです。
さて、山道はやがて終わり、元の公園に戻ってきました。
けれどどうにも、この夜の解放感が心地好く、煩わしい場所には戻りたくありません。そんなわけでもう少し外にいようと、公園の中のベンチに腰掛けます。
そしてまたつらつらと、思いついたことなど書いているうちに、2種類ある照明のうちの一方が消えました。もう20:00です。
けれどそれでも、残っている明かりを頼りに、思いつくことなどを書き連ねてみます。なかなかブンガクテキな姿でしょうか?
そんなバカなことはともかく、21:00頃、二人組みのおっちゃんが現れました。私のいるベンチからそう遠くないところに腰掛けて、あれこれと楽しそうに話し始めます。缶ジュースでも飲んでいるのか、それともカップ酒か、なにかそういうものを開けた音がしました。そして、雑草にてこずってる、なんて話をしています。
またしても人のことは言えませんが、どうしてこんな時間、こんな場所で話すんでしょう?
仕事の帰り? うちにいづらいから? 飲みに行った帰途? なんにせよ、毎日が特に不満もなく楽しいから、今も楽しそうに話しているのか、それとも毎日が不満に満ちて苦しいから、こんな夜、気心の知れた友達といる今、楽しそうに話せるのでしょうか。
「なんでこんなとこにいるんスか?」と効けばやはりあやしい人になってしまうので、こっそりと想像するだけでやめておきました。
夜の散歩は大変に面白いものです。
昼の様々な制約やパターンから解放され、物事は社会ルールより自己規範が強く支配する夜へと出かけます。そこでは、昼の間ならば紋切り型で右か左にくらいまで限定されてしまう事柄が、様々な可能性をはらんで見えます。
もし私が昼間、山道でおっちゃんに会ったら? 店の人なんだろう、とか墓参りだろう、程度にしか考えません。たとえ冗談にしても、幽霊だのそれに会いに行くだの殺人者予備軍だの自殺志願者だの、考えないでしょう。そして二人組みのおっちゃんにしても、仕事が休みで暇なのか、とか仕事の合間の休み時間か、くらいにしか思いません、きっと。
誰のものでもない場所で、気侭に思考することは、贅沢な喜びかもしれません。
考え、書き付ける以外にはなにもない場所は、その二つの行為だけに私を専念させてくれます。
そこには生々しい他者も面倒な約束事もなく、あるのは私だけ。私の目に映り、私の中にいる他者と、私が私に求める約束だけがあります。
そして、そんな夜にほっとする時、私は昼より夜の生き物なんだなー、とか、少しばかりナルシスティックにロマンティックに、考えてしまうのでした。
……かなり謎だな、これ(爆
2002年5月31日(金)
「錯覚」
人間なんてぇものは、と大きく出るのもなんだが。
見たいものしか見えないようにできている。
見たくないものからは、それをはっきりと認識する前に目を背けてしまうか、本来の姿からは無理やり捻じ曲げて解釈しようとするものだ。
それが悪いというわけじゃない。
ただどうにも気にいらないのは、「そんなものは見たくないから見ません」と認めないで、なんとかそれをキレイな言葉やもっともらしい理屈で誤魔化してしまうこと。