烏の足跡



2002年2月26日(火)

「ニンゲンカンサツニッキ」

 さすがに九年近くも留守にしていたうえに、その間に実家が引っ越しまでしているというこの状況。
 つまり、近隣に旧知の友人・知人がいない。
 フラフラと遊びに出かけるわけにもいかず、,ネット世界を彷徨うこともままならず、日々マットーにバイト先と家とを往復し、たまにそこらの本屋・レンタルショップを徘徊する程度というサビシー現状。
 そんなわけで、話のネタの拾い先が限定されてしまっていることに、日記を書こうとするたびに気付き、憂鬱になる今日この頃である。

 と前振りしておいて、と。

 けっこう大勢の人間が集まって「仕事」をしている場だと、当然ながら、仕事の速い人と遅い人、要領のいい人とわるい人が混在している。
 いくら優秀な人間ばかり集めたところで、順位をつければ、誰かが一位で誰かがビリになる。
 そういう中では、「あの人に任せるとモタついて嫌だ」とかなんとか、仕事の遅さ、要領の悪さを責める人がいたりする。まあ、こんなことは、ある程度人間ができていれば、心の中では思っても人には言わないものなんだが、やはり、口に出す人も中にはいるわけで。

 「『Aさんにやらせると遅くて嫌』とかなんとか、そういうことを言う人がいるんだよ」と、ただの愚痴なのか親切からの密告なのか、教えてくれる人がいた。
 そういうことを教える、という心理も、検討してみればいろいろと解釈のしようはありそうだが、今回はそんなことはやめておこう。

 仕事の遅い・速い、大きく言えば、人の能力値の差なんてものは、あって当然で、私は、そのことについて云々するほうがナンセンスだと思う。
 たとえば、100mを10秒で走る短距離ランナーもいれば、20秒かかる足の遅い人もいる。しかし、100m走で一番肝心なのは、何秒で走るか、ということ以前に、100mちゃんと一生懸命走りきる、ということだ。
 歩くより遅ければ問題外だが、普通に走って、その結果が20秒だったら、それはそれで仕方がない。鍛えればもう少しタイムは縮まるのかもしれないが、成果を出すためのトレーニングを施してやれるトレーナーというのは、それも才能ある人にかぎられていて、どこにでもいるわけじゃない。
 自分が13秒で走れるからといって、18秒かかる人を馬鹿にする。仕事の能力のことをあれこれ言うのも、これと同じことだ。速いのはすごいとしても、それ以上に、遅い人を平気で馬鹿にするという根性が問題。
 人の能力が劣っていることを嘲ることで、自分の能力の高さをそれとなく仄めかしたいのかもしれないが、能力以前の問題として、人間性の未熟さとやらを暴露してることに気付かんかな。
 いや、それも、遅い人にさんざん困らせられて、イライラが頂点に達して、「もう嫌だ」と言わずにいられないなら、そりゃ仕方ないと思う。
 しかし私が聞いたかぎりでは、どうやらK店のパートさんたちの場合、そういうんじゃないようで、いやはや。

 仕事ができる、と自負するなら、できないと見える人のフォローをしてやってこそ、自分の能力を堂々と自慢してもいいんでないだろか。
 よーするに、「3人で合計300mを45秒以内に走ってくださいね」というような条件で、100mに18秒かかる人の代わりに、13秒で走れる人が、余計に10mくらい走ってタイムを補う、という具合。
 仕事でもなんでも、同じではないかい。
 仕事のできる人はそれなりのポストについて、自分の能力値に相応しいだけの質量をこなしているのかもしれないが、だとしても、仕事のスローな人に文句を言うのはみっともない。
 そう。道徳とか倫理とか社会正義とか常識とかに照らし合わせて良い悪いということじゃなく、単に、カッコ悪い。だから、言いたい人は言ってりゃいいし、それで自分の狭量さとかを暴露していればいい。好きにしてOK他人の知ったことじゃない。
 しかし、どうせ威張るなら、人をけなすことで自分を持ち上げるようなネガティブなやり方じゃなく、ストレートな、ポジティブな威張り方をすりゃいいのにね。
 人のフォローをしてやって、俺のおかげでさっさと片付いたんだぞ、と言ってるほうが可愛いというもんだ。

 仕事の速い遅い、量の多い少ない、手際のいい悪い。
 そんなものには身体能力や特徴と同じく、個人差があるもんなんだから、とやかく言ったって始まらない。
 仕事だけじゃなく、人付き合いの得手不得手、個人の性格とかにまであてはまることかもしれんが、あれこれ文句言ったって注文つけたって、「その人はそんな人」なんだから、まず仕方がないもんではないだろか。
 要は、「そんな人」とどう付き合うか、付き合うのをやめるか、という自分の動きようで。
 仕事量なんかなら、自分がフォローできるかどうか、そのフォローが負担になってこないかどうか、負担になるなら、じゃあなんとかする方法はないか探すしかない。それは、たとえばコツを教えてやることだとか、他の誰かにもフォローを手伝ってもらうことだとか、いろいろあるだろう。
 どうしようもなく「使えない」ような人はそういるもんじゃない。もしいたとしたら、それでもその人と関わるか、関わるのをやめるかを選択するだけだ。
 自分が社長だの店長だのという立場なら、クビにするという方法もある。「その人」と同等の立場なら、「その人」のせいで回ってくる面倒を我慢してそこにいるか、自分が出て行くか、やめるようにそれとなくそそのかすか、やめざるを得ない状況に追い込んでやるとか……(おい)。

 なんにせよ、日常会話みたいにヘロッと、「あの人は使えない」なんて言って、それを人に聞かせて自分のみっともなさを曝け出しているくらいなら、なんか行動したらどうよ、と思わずにはいられない烏であったとさ。

 ……とここまで自分ことは棚上げしておいて書いておいて。
 さて、と自分の身を振り返ると、………………。

 ある意味、口がきけないというのはいいことなのかもしれないな、などと、聾唖者に怒られても仕方のないようなことを思ってしまうくらい、言葉というものは微妙で危険なものだと思わずにいられない。
 あれこれ書いてはみるが、日常生活を、アレはああすべきだこうすべきだ、と逐一考えながら過ごすのは、大したストレスだ。
 たとえば疲れた心身引きずって、ノリと勢いで会話してれば、後先、己のこと、他人のこと、なんにも考えずに愚痴でも文句でも、ついつい言い流すことだってあるだろさ。
 私はこんなことをもっともそうに書いているが、「じゃあおまえさんは、そういう人に対してどうするわけよ? ここで無関係な人間に向かって、一般論めかして偉そうに語ってるが、そいつもただ、自分の思考能力ってもんを見せびらかしたいだけなんじゃないの? こんなとこであれこれしたり顔で語るくらいなら、黙って、そういう人とうまく付き合っていく方法を一人見つけようとするのが、一番カッコいいんじゃねえのかい?」と、もう一人の私がツッコミをいれてくれる。あなありがたや黙ってやがれコンチクショウ(ぉぃ

 それに、これまで、そしてこれから、こんなふうに考えたことを自分自身が行ってきたか、いけるか、という話になると、……聞かんでくれ、としか言いようが……(汗
 過去については今更どうしようないんで、「使えない、などと言ったことはないにしても、あまり考えもせず人のことを悪く言ったことはあるしなぁ」、と認めるだけのこと。認めたうえで、これからはやめよう、とその方向に動いていくしかない。
 しかし、やはりノリと勢いで動いてしまう日常生活、自分から口火を切ることはたとえなかったとしても、そういう話の輪に巻き込まれれば、ついついと何かを零してしまうことはいくらでもありそうだ。

 「ついポロッと」なんて簡単に言葉を出せてしまう。それが、普通に声を出して言葉を喋れるがためなら、声がないほうがいいのかもしれない。
 もちろん、なんらかの病気なんかで口がきけない人に言わせれば、そんな呑気なもんじゃないのかもしれない。
 少し想像するだけでも、口がきけないのが「いい」わけはないことは分かる。楽しい時に大声で笑う、どうしても我慢ならない時に感情のままに怒鳴りつける、そういうことができない、というのはストレスなのかもしれないなぁ、とか、周囲の人の目とか反応とかを創造する程度だが、その程度でも、いいもんじゃあないだろう、とは思う。
 しかし、それでも。
 というか、それくらい、と言ったほうがいいか。
 口がきけないのはいいことじゃない、と思いはしても、それでも、口がきけないほうがマシでないかい、と思わずにいられないくらい、愚痴・悪口雑言・密告の応酬の真っ只中なのである、現在(T_T)

 魔夜峰央さんの「パタリロ」の中に、「唇に錠前」という、非常に深い一遍があったのをよく覚えている。
 つい余計なことを言って人を怒らせてばかりいる少年に、「口を開く前に少し考えるようにして、言うべきこと、言っていいことだけを言うようにするといいんだ」とさとすという、教訓に富んだ話だった。
 この話自体は、もうどれくらい前のものかは分からない。下手すると十年より前に書かれたもので、読んだのも、書かれたのとそう差がない時期なのかもしれない。しかし、読んだ時からずっと心にとどまっている話だ。
 読んだ時は、そう深く感じ入ったわけではなかったが、己の発言(声、文字を問わず)がなんらかの問題を起こすたびに、重くなってきた。
 雄弁は金、沈黙は銀だったか、その逆だったか。意味のほうも、どっちがいいと言うものだったのかもうろ覚えだが(金より銀のほうが価値のあった時代・国もあったからなぁ)、私には、昔はなんとなく、そしてこのごろはつくづくと、寡黙なほうがいいんだろうな、と思える。

 本当に大事なことだけを喋っていたのでは日常のコミュニケーションがとりづらいだろうが、少なくとも、余計なことまであれこれと喋るのは、ロクな結果をもたらさない。
 話は長くなったが、簡単に人のことを「使える」とか「使えない」とか評価してしまい、あまつさえそれを言葉にするのは、間違いなく余計な一言というヤツだ。
 そんなことを口にして自分自身のの評価を落とすより、他にやりようってもんがあるんじゃないのかねぇ、と論点を回帰させておいて、今回はここまで。
 次回はナニかな?(←馬鹿



2002年2月27日(水)

「ニンゲンカンサツニッキ5」
 今月から、ある部門の担当者にさせられた。
 ちょっと待て俺はまだ入って一ヶ月半くらいしかたってないんだぞまだこの店のことについちゃ知らんことのほうが多いんだぞ!? と思いつつも、引き受けてしまった。
 仕事について、難しいだの忙しいだの、そんな文句は、あまり思ったこともない。追いつかないほど忙しい思いをしたこともないし、手に負えないというくらい複雑なものに出会ったこともない。
 だいたい、どうしようもないくらいに難しいとか、それでうまく手が回らなくて支障をきたすようなら、正直にそう言って下ろしてもらうとか、サポートしてもらえばいいだけのこと。
 やる前から「できないかも」なんて思うほど、私は謙虚でも卑屈でも自虐的でもない。つか、むしろ傲慢なほうだろうしな(己で言うな

 さて、ともかくそんなわけで引き受けてみたわけなんデスガ。
 勘弁してください(T_T)
 半月ばかりやってみて、本気でそう思う今日この頃である。

 さて問題。
 なにがそんなに嫌なのでしょー?
 ……などと馬鹿やってどうするか。

 勘弁してくれ、と思うのは、一気に私を巻き込みにかかった愚痴コミュニケーションである。

 私が今、引き継ぐ仕事を教えてもらっている相手というのは、少し性格に難のある人。
 どう、と普遍的な言葉では説明しづらいが、「私が一番偉いのよ」という態度が目立つらしい。らしい、と言うのは、私がそういう現場を見たわけではないから。あくまで、聞いた話なんだが、……その人、Aさんとするが、AさんはK店にいるパートさんたちの中でも一番古い組に入るそうだ。で、後から入ってきたパートさんにとっては「先輩」ということになる。それである時、自分の母親くらいの年の「後輩」が、「これどうするの?」と尋ねてきた時、「どうするんですか、でしょう?」と言ったらしい。
 ……と、まあ、そういうことを言うような性格だということだ。
 変に、自分の都合次第に封建的、と言えばいいのか。
 何をするにしても「私が正しい」という態度で、他のやりかたをまるで認めようとしない傾向は、確かにある。人の意見なんざ聞いちゃいねえ、ってタイプかね。

 と書いてみるが、私がAさんについて自分自身で知ったことはと言えば、そう多くない。
 教えてもらっている途中で、「おいおい、そういう言い方するかね普通」と思うようなことはあるが、……なんというか、それがあまりに普通じゃなくて、珍しいもんで、腹が立つとか癇に障るという以前に、「面白い(変・妙という意味で)人だなー」と、これこそ傲慢だろうが、呆れてしまう。
 ともかく、私が自分で確かめたことは、それだけ。
 他は全て、他のパートのおばちゃんたちからの密告による情報である。

 そうなのさ。
 Aさんの下についた途端、その密告というか、「親切な忠告」と愚痴が爆発的に増えたのさ。
 あんなことがあった、こんなことがあった、こんな人だ、あんな人だ……。
 「どう?」と聞かれるのは、「嫌なこと言われなかった?」と私を気遣ってくれているんだろうし、それはありがたいんだが、つまりそれは、「Aさんは嫌な人だから」という思いがあればこそだ。
 あちこちから、Aさんに関する悪い情報ばかり押し寄せてくる。
 おかげで覚悟して付き合うこともできるわけだが、その量たるや半端じゃなく、言う人の数も……。

 そして、前回の話にもちらりとつながる。
 そういう会話に巻き込まれていると、ついつい、「そうですね」とか言っちまいそうだし、それだけならまだしも、「こんなことがあって」などと、別に人に言わんでも我慢してられるような些細なことを、口にして会話してしまいそうになる、これが嫌だ。
 あれこれ人のことを言うのがどれくらいみっともないか、嫌になるくらい思い知らせてくれたこの場所、このままいると、思い知ったにも関わらず、同じように愚痴でコミュニケートしそうになる、これがもう、ホンットに嫌なんだワ。

 しかし私が今回書きたいのは、そんな私の泣き言ではなくて、これはあくまでも前振り。

 という具合に、Aさんという人は、とにかく他のパートさんから不評を買っている。この人の悪口言ってれば誰とでも会話がもつ、というくらいに。
 そんな状況を目の当たりにして、ふと思ったことがある。

 K店の場合、あちこちでそれぞれに、いろんな人の陰口が叩かれまくっているらしいが(はい、これも全て密告情報)、とにかくAさんのことは、「みんな嫌ってる」らしい(「みんな」に確かめたわけじゃないがね)。他の場所で他の誰かと別の誰かの悪口を言っていても、Aさんのことは、みんなして快くは思ってないという話だ。
 で、Aさんのことを悪く言うかぎりにおいて、いつでもどこでもだ誰とでも、鬱憤晴らしの愚痴大会が開けるという仕組み。
 さて、ではAさんは孤立無援、内心にでも、その人のことを弁護しようとする者はいないのか?
 一応、いるにはいる。が、その人も結局、私に「あの人はこういう人だから」と悪いイメージを吹き込んでいるのだから、Aさんの味方とは言えまい。

 こうなると、Aさんの何が悪い、ということだけではないんじゃないか、と思えてくる。
 Aさんの態度や振る舞い、言動に、事実として、周囲の人を不愉快にさせやすい要素があるとしても、その孤立をさらに決定的なものにしている別の何かがある。
 それが、共通の「敵」を攻撃することでまとまとろうとする、ニンゲンの性質じゃなかろうか。
 そして、「敵」を孤立させ弱い存在にしておくために、「味方」を増やそうとする。
 それは、「敵」側につけばアンタも攻撃対象にするぞ、という脅しであったり、「敵」の悪いところばかりを吹き込む情報操作であったり、なにかと援助したりしてくれる「恩」の販売だったりする。

 おんなじでない?
 戦争も、イジメも。

 相手の何が悪い、ってことじゃない。
 悪いといえば、誰しも何かどこか悪いんだろうに、なにかの弾みで、一対多に分かれたが最後。
 「多」がまとまって快適であるために、「一」が攻撃される。
 「一」の味方につく者が現れないように「多」は常に威嚇態勢をとる。
 「一」のほうになにか、そちらにつくことでこうむる不利益を押しのけるような魅力・正義・道理なんかがあればともかく、「特に何が悪いわけでもない」だけでは、「多」を敵に回してまで味方してくれる者は現れない。
 何か絶対的に悪い要素があれば、「一」自身も納得するなり、自分をかえるなり、なんらかの軌道修正を行うんだろうが、「別に悪いことなんかしてない」から、特に何を変えることもなく、理不尽にせめつづけられるだけになる。

 迂闊にイジメについて触れると、実際にイジメられてつらい思いをした人とかから、「あんたに私の気持ちはわからない」と反論がきそうなんで、このくらいにしておこうか。

 まあ、できるかぎりレーセーぶって周囲を観察してみると、そんな、ニンゲンという生物の行動原理みたいなものの縮図が見つかるわけである。
 怖いやね。
 悪いからせめられる、んじゃない。良くない(快くない)からせめられる。
 害があるから積極的に排除されるならまだしも、益がないから保護されない、つまり、消極的にだがいつも排除の可能性と背中合わせということになる。
 人が集まって集団になると、個人の利害を超えて、集団心理とやらが働くという、これもそれなんだね、きっと。

 で、こっからは蛇足。
 物好きな……というか、余計なものからでも、自分のためになるものを吸い上げられる力のある鳥さんだけ、見ても悪くはないかもね。

 私を「味方」に引き入れるため、「敵」の側につかせないため。もちろん、それだけじゃないだろう。そこには、私が無駄に嫌な思いをせずに済むように、という親切心なんかも含まれているんだろうけれど、なんにしたって、誰もが誰かのことを悪し様に言う。
 誰もが誰かについてのマイナスイメージを、他の誰かと共有しようとする。
 その結果、心と言葉ののほつれが浮かび上がってくる。

 「ここの人は愚痴や陰口ばっかり言ってるの。私も驚いたわ」とまるで傍観者みたいなことを言う人もいるが、ちょっと待ってくれそこのネエサン。アナタがそうやって私に告げていることも、結局陰口と変わらないってことにアナタは気付いてないのか?
 「あのババアは口も態度も悪い。あんなのとは友達になるもんじゃない」というオジョーサン。アナタのその言いようもずいぶんと口汚いと思うが?
 「二人集まれば人の陰口ばっかり。特にあの人なんかは、表は愛想いいけど、裏でなに言ってるか分かるものじゃない」というオバサン。アナタもそうやってこき下ろした相手の人と、にこやかに話してるじゃないか?
 ものの分かったようなことを言う人まで、言っている内容がこれで、結局は同じ穴のムジナ。

 口がきけなけりゃ、と前回書いた。
 やはり、今回もそう思う。
 腹の中で何を思っていようが、周囲にとって重要なのは、言動だ。腹の底の思念は、とりあえず現実にはなんの効力も持たないんだから。
 言葉を出した途端、その言葉が、その言葉自身を台無しにすることがある。
 上に挙げたみたいな、もっともなこと。愚痴や陰口は言わないに越したことはないし、口調や態度は丁寧なほうが人品がいい。もっともなことなのに、それを言葉にして誰かと話している時点で、その会話自体が愚痴や陰口になり、そうしている会話の中の言葉自体が、褒められたものじゃなくなることがある。
 何を思っても、真理も自分にとっての正義も、口にして、文字にして語るより、黙って胸のうちに秘めたまま、ただ行動するほうが、矛盾は起こさないんだろう。
 私もこんなことを書きつつ、これも愚痴や分をわきまえない批判に過ぎないんじゃないかと懸念しつつ、そうならんように心掛けてはいるものの、成功しているかどうかは分からない。
 それでも書くことを選べばこそ、こうして書いている。
 それは、いくらかでも私のこの日記を楽しみにしていると言ってくれる鳥さんたちに、なんらかの「実」になるものを、その種を、拾っていってもらえれば、私が「ここ」にいる意義もある、と思うからだ。
 文字だから、アップする前に読み返し、チェックすることもできるが、これが音声による会話となると……まとまる前に、自分自身の中で確かめる前に、言葉にして出してしまうことになりやすい。

 そして私は、このままこのバイト場にいると、私までノリと勢いの愚痴コミュニケーションに染まりそうで、それが恐ろしい。

 そもそも、急遽地元に引っ越したのだって、発端は、私が深く考えもせず零した愚痴だった。
 誰かについてなんらかの不満があるのは事実でも、それでその人について私が思っている全てじゃない。その全てをきっちりと語るならばともかく、ふっと心を過ぎっていった、その瞬間の、自分勝手な愚痴のみを言葉にする、という短慮。なにより、自分勝手だということにも気付かないくらい「イイカゲン」になりすぎた、惰性のバイト生活。
 そういうのをやり直すために、1からどころか、マイナスからの出発になるのを承知で帰郷した。
 だから、とりあえず目下のところ私は、人のことをいい面も悪い面も、全て公正に観察してなんらかの有益なものを導くのならともかく、感情だけに因った陰口みたいなことだけは言いたくない、と思っている。
 自分で気付ける範囲だけでもいいから、できるかぎり、そんなみっともないことはしたくない、と。
 思っているとゆーに、「一緒に言いましょう」と言わんばかりのこの現状。
 その中から、こんなふうに何かのネタを拾い上げてきてるんだから、無駄ではないんだろうし、最終的には私の心の持ちようにかかってるんだろうが、……ねえ。

 ホントに思ったんだよ。
 私がK店に入ってから、聞かされた、あるいは話しているのを横から耳にした内容というのは、大半が仕事がらみの愚痴。
 ある二人が話していた映画の話が、異様なくらいに鮮烈な印象として残るくらいだ。
 これまではゲーセンだったし、一緒に働いているゲーマーたちと、あのゲームはああだこうだと話したり、映画好きな人とあれは見たかこれは見たいだとか話したり、あるいは彼氏・彼女の話、家族のこと、ペットのこと、趣味のこと、多少オタッキーに偏ってはいたかもしれないが、それぞれに、「楽しいこと」の話題があった。もちろん、時には「嫌なこと」を話題にして話もしたが、「楽しいこと」をメインに話すことのほうが多かった。
 ゲーセン以前のレンタル店でも、その前のカラオケ店、それぞれのバイトの合間に突っ込んだ短期のバイトでも、「自分の好きなもの」について話す中に、「自分の嫌いなもの」の話が混じるような感じだった。
 それが……普通の池に少しくらい泥が浮いてたって目には止まらないもんかもしれないが、池一面が泥に埋まっていれば、さすがにそれが「汚い」とは気付く。
 愚痴や陰口というのがどれくらいみっともないか、見せ付けられるようにして思い知って、「こんな軽率な、ただのコミュニケーション代わりみたいな愚痴だけは言わないようにしたい」と心底思ったんだよ。

 誰が悪いというわけじゃない。
 一人一人は、当たり前の人たちで、私より、他の誰かより、劣るとか秀でるとか、言っていいほどの差なんかないんだろう。
 それぞれの人たちは、そうそうみっともない人じゃない。聖人君子でなんかなくても、普通に不満があって、普通に優しいところがあって、普通に我が儘なところがある、普通の人なんだと思う。
 なのに、「別に悪くはない」ものが寄り集まって、「別に悪くはない」ものを一つだけ「敵」にして、「悪」として、「私たちは正しい」と安心しようとするところから、歪み始める。

 偉そうに言えば、それは人が一人では弱いから、か?
 平穏ってのは、守られていて、怖いもの、痛いもの、つらいものが近寄ってこないこと。
 だけじゃない。
 守られていなくても、こまごまと厄介なことはあっても、厄介な敵が存在しないことが、平穏でもある。
 そして、味方が多ければ多いほど「敵」はとるに足りないものになるから、敵を弱く、自分を脅かさないようにしておくためにも、味方を作ろうとする。

 当たり前のニンゲンが、当たり前の心に従って動こうとするだけのことが、一歩どこかでリズムが狂うだけで、これほどの泥が溜まり、時には無意味なイジメが起こったりも、するのかもしれないね……。



2002年3月7日(木)

「久々にっ」

 久々に、集中しきってPCの前にいた。
 何をしてたかは、更新欄とその結果を見てくれ……っ。

 つか、まる12時間くらい延々と、PSO−rの推敲、修正および引っ越しと、用語設定のページを作ってたのである。
 おかげで肩が張るったらもう。

 PSOが発売されたのが、2000年の12/21。
 現在、2002年の3月。
 一年前の今頃は、毎日のようにタイラントやベータ、ヤン、メイと遊びまくっていたものだ……(しみじみ

 で、その頃に書き始めたPSO−r、一年たってやっとこんだけデスカ?(自滅

 ま、まあ、去年の夏ごろ、3ヵ月くらい男塾ばっかり書いてたし、その後はルーキーズに浮気してたし。
 しかし、にも関わらずその合間に、チビチビとPSOものも書いてきていたんだよなぁ。
 なんつか、他のパロディやオリジナルと違って、私の書くPSOものには、ほとんど実在のモデル、キャラクターがいる。そして、その背後にプレイヤーが存在する。
 スタートした、キャラクターたちの物語。
 これは、何がなんでも完結させんことには、私的には許せんのである。
 それも、できることなら、私を含めたプレイヤーたちが、私によって動かされるキャラクターに、なにか納得するものを覚えてくれるくらいに、ちゃんと動かしてやりたいのである。

 商業的に出版されたマンガとか小説とかのキャラクターは、やっぱり、私にとっては稀薄な存在でしかない。
 もちろん、それでも気に入るし、面白い。
 が、生身のプレイヤーがモニターの向こう、電話線の彼方にいて、ナマでやりとりしたほどの厚みと濃度は、ない。
 それぞれのプレイヤーが、20年なり30年なり、現実に生きてきて、そこにいる。
 だったら、彼等が生み出してくれたナイスなキャラクターたちにも、本当に生きているかのようなリアルさを与えられたらいいと思う。
 それはあくまでも架空の、私の空想上の「リアル」だが、なにか、生身のものに劣らないくらい、それぞれのプレイヤー、つまり「本人」たちに、美味しいと思ってもらいたいんである。

 今から振り返ってみると(一年前のことを、なに大袈裟に……)、めちゃくちゃ楽しい時間だった。
 そりゃ今まで生きてきて、楽しいことはいくらでもあったし、いろんな人と遊んできた。
 けど、その中にいったいどれくらい、毎日のように会うのを楽しみにした相手がいただろか。
 「キャラクター」を通したRPG部分があるからこそ、単に「同じ場所で同じことして遊んでる」というだけではない楽しさがあったのかもしれん。
 理屈はなんにせよ、それくらい面白い時間だった。

 その時の楽しさを思い出し、蘇らせるため、少しでもその楽しみとつながっているため、そして、一緒に遊んでくれた、くれているプレイヤーたちに、その時のこと、つまり「楽しい」と思って過ごした時間があることを覚えていてもらうため、形にして残したいのかもしれない。

 だから、キャラクターの背後に実在しているプレイヤーたちが面白いと思ってくれるよう、消化不良の話にならないよう、これから先もちまちまと書いていくつもりでいるのである。



2002年3月20日(水)

 そういうとこの巣って、PSOメインとして始動し、塾メインとして育ったから、付き合いのあるサイトさんはほとんど塾関係なんだよなー……。
 にも関わらず、ここんとこPSOのほうが派手に動いてる。
 PSO関係のサイトさんにも仲間に入れてもらおうかと思わないんでもないんだが、はっきり言って、つまらんと思うんだ。
 いや、そのサイトさんたちが、じゃなくて、うちが。

 卑下するつもりはない。
 あくまでも冷静な判断。
 なんていうか、PSOっていうのは、プレイヤーそれぞれが自分のキャラを持っていて、「キャラの物語」というRPGが好きな人にとれば、主役は自分のキャラなんだと思う。
 「英雄は一人じゃない」とかいうキャッチコピーもあるしな。
 しかし、うちの話は実在のキャラがメインで、「主役」「英雄」として扱われるのは、読者にはまるで馴染みのない連中。
 そんな奴等より、やっぱ自分(読者)のキャラが一番カッコいいし可愛いし、強いほうがいいと思うんだな。
 だから、他人のキャラがあんまり美化されてたり特化されてたりすると、つまらんのじゃないか、と。

 あくまでもゲームとしてのPSOが好きで、世界観が好きで、という人にならともかく、キャラが好きな人にとっては、複雑なところがあるんじゃなかろうか。
 とはいえ、実在のキャラだと思わずに読んでもらえれば、そこそこは楽しんでもらえるのかもしれないが……。
 だいたい、私の書くPSO系の話、もしキャラが「自分たち」のものでなかったら、それでも面白いんだろうかね?
 「After the end of nightmare」はそこそこ好評ではあったが、あれはけっこう、大雑把にではあれ、「人間」を書いたものだったしなぁ。

 などと考えてみたりするのであった。




Made with Shibayan Diary