2001年10月2日(火)
「金木犀」
ここのところ、朝、バイトに出かけようとかすると、何処からともなく漂ってくる。
金木犀の匂いって好きなので、得した気分なのだが、いったい何処に咲いているものか、場所は分からない。
今はもうすっかり疎遠になってしまったというか、なんとなく、互いに沙汰しなくなった相手だが、金木犀のポプリ(?)を作ってくれた女の子がいて(もう「人」か)、未だにそれはうちにある。
もうなーんのにおいもしないけどね。
大掃除とかするたびに、捨てようかどうしようかつい考えるのであった……。
2001年10月5日(金)
「ザ・ショック?」
AM 6:00現在まで。
己がかれこれ十年ばかりも前に書いていた絵だの文だのを見ていた。
中には正視に耐えないものもあるが、中には、はっきり言って今の己より頭いいんじゃねえか、とか、今より上手いんじゃないの、というものがあり、ちと愕然としてみた。
既に自画自賛レベルなんでまともにとりあってくれんで結構なんだが、表情の描き方とかは、今より高校時代のほうができてんじゃないかという気が。
そういえば高校時代は、一日に必ず一枚は絵を描いていたな、と思い出す。
オリジナルで書いていたファンタジーの長編小説があって、それの挿絵とかイメージ画とか。
膨大な紙を消費している。
おそらく、五年間で、ノートにして80冊ほど。
あの頃に比べれば、今の己は雑文にしても小説にしても絵にしても、ちっとも書いてない。
そりゃ当時は学生で、授業中はイコール落書きの時間だったが(ぉぃ)、アノ頃より今のほうが、もの考えてない。
当時ずっと不安に思っていたのは、そのジョーネツというか、暴走具合が、これからあと何年、続くのか、ということだった。
何かを書き付けて形にしたくて、自分の中にあるものを小説というものにまとめることが何よりで、進学校に通いながらも、うちで勉強したことなんて結局一度もなかったからなぁ。
大学も、受験勉強なんてものをせずに入れるところで、心理学科か哲学科があればいいや、と選んだし。
そして今現在ここにいるわけだが、己を顧みることも浅いあの頃の、盲目であるがゆえの熱意みたいなものは、確かにもうない。
自分自身と、自分の作り出すものに酔えたがためのひたむきさは、もうほとんどないと言っていい。
得たものがあり、失ったものがある。
どちらが重いとか大切だとかは、問題じゃない。
その答えがどうであろうと、今手元にあるものを最大限に有効活用することが何より大事だ。
利口になって、ものが見えるようになって手に入るものもある。
けど、愚かで盲目だからこそ手にしている、大切なものもあるんだろうな、とか思ってしまった。
なんにせよ、私はそういう昔の自分も可愛いと思うし、今現在の己についても気に入っているので、いい時間を送って来れたよな、と思うのである、うむ。
2001年10月8日(月)
「because I'm un-real」
この巣を作って丸四ヶ月が経過し、最近、リアルでの友人とネット世界での友人との数がトントンになりつつある。
トントンってなに? という人には解説するが、要するにほぼ同数になりつつあるってことだ。
「友人」と一言で言ってもいろいろあるが、仕事場で顔合わせるだけでプライベートで付き合いのない人はただの同僚だし、まあ、それなりにいろいろと、私的なことを話したりして頻繁に連絡をとるとか、もういっそ連絡なんて稀でも、そんなことであれこれ考えなくていいような旧知の親友とか、そういうレベルを「友人」と言うとして。
もちろんネット上での付き合いだから、この場合、メールのやりとりが頻繁で、その中にいろいろと私的な話題も出し、おそらくはサイトの管理人という以上に、そこを訪れる客という以上に、お互いに興味を持っている(と思われる)相手を「友人」と称する。
モニターを挟んだ付き合いで、決して深いとは言えないが、それでも、だからこそ、いいと思えることもある。
現実に顔を合わせる付き合いになると、どうしても様々な利害とか損得勘定とか、手が届くからこそ生じてくる問題があるし、何より、ふとした時に本音が零れてしまったりすることがある。
というとネット世界ではおまえは建前で過ごしてるんか、とツッコまれそうだが、そういうことではなくてね。
たとえば、目の前にいてリアルタイムに会っていると、つい反射的に、よく考えもせずヘロッと口に出してしまう、言うとまずい内容とかもあるし、感情的になった途端に顔に出たりすることもある。
それはたしかに「本音」だけれど、相手のことを思う気持ちがないわけでもなく、それもまた「本音」。
そういう、二つの本音の内、出さんでいいほうを、つい表に出してしまうことがある、という意味。
しかしモニターを挟み「文字」を言葉として使っていれば、喋るよりはいくらか冷静に自分の言おうとしていることが見える。
それに、距離があり、まだ顔も見たこともないがゆえに、必要以上に肩入れすることもない。
肩入れ、ってのは、まあ、具体的に言えば私はこの日記の中で、よく己のギリギリすぎる生活をネタにしたりするが、この巣に来てそれを読んでいるかぎり、あくまでもどこかは「読み物」であって、切迫した感じは持たなくて済む。
「おいおい、大丈夫なんかよ」と思っても、できることがなければ何もしなくても済む。
お互いに住所とかも教えている相手とは、いろいろと贈り物(貢ぎ物/笑)したりもしているが、それにしたって梱包して発送する手間をかけなければならない以上、そう頻繁に、手軽にできることではない。
私が金がないだの飯食ってないだの寝てないだの、何をわめこうが、この距離に支えられて、あくまでも「独り言」として片付けられるし、片付けてもらえるからこそ、私もネタにできる。
「距離」を挟み「手間」を要する相手に過剰な期待をすることもなく。
これがリアルだと「近くにいる友人としては気遣わねばなるまい」とかいう義務感に駆られることもあるし、義務感ではなくても「こいつはもうどうしようもねえんだから、面倒見てやらんと」と心配させてしまったり。
ともかく、距離があり会うこともなく声も知らなければこそ、リアルほどの気遣いは、お互いにせずに済む心地好さがあるのは、事実ではないかと思う。
なんにせよ、ネットの世界に出没している「RAVEN」という名の私は、私そのものの、ある一面だけしか見せていないことは間違いない。
でもま、それでいいかな、と思うんである。
友人たちにとって、心地好い隣人であれれば、それで。
そこに生じているいくばくかの期待とかを裏切らずにいられれば。
何を言いたいのかよく分からんかもしれんが、そういう時はあまり考えないように。
きっちり考えれば論じることも可能なんだが、日記にそんな頭使いたいわけでもなく、思いつくままに書き流しているので。
ある可愛い鳥さんから「キレイな人」と評されたところから、こんなことつらつらと思ってみたのデス。
その鳥さんにとって心地好い、良き隣人であること、それが「キレイ」の意味なのだろうけれど、そんなふうに評される「己」でいるネット世界、それなら、変に距離を縮めるより、遠くていいから「キレイ」なまま、その鳥さんの傍にいてあげられればいいかなぁ、と。
2001年10月10日(水)
「夢のごとし」
何がって、己の話の書き方。
ついさっき気付いたんだが(さっきか)、夜見た夢を起きて書き付けるのに似てる。
見て、その場で即刻反芻して書き付ければ、いくらか思い出せないところはあるにしても書くことができる。
けど時間を置いてしまうと、もう出てこない。
中途半端に終わった夢の続きを無理やり考えようとしても、どうもうまくいかない。
途中まで書いたっきりストップしてしまっている話、『伊達×4』にしても『去却』にしても、「夜の獣」「四天の橋」「華籠の城」「Beast Tale」、どれも全部そんな感じだ。
なんか、いかに自分が閃きと衝動と勢いとノリだけで話書いてるかが如実に表れてるよなぁ(汗
それでも、夢と違って描いたイメージを忘却しているわけではないから、夢に漂った瞬間と似たような感覚さえ手に入れば、また一気に進むと思うんだけどね。
2001年10月11日(木)
「雨」
昨日は一日中雨が降っていて、今日もイマイチな空模様だった。
晴れ間は覗いたものの、すっきりしないというか。
妙にピントのずれた今の己の心境と似てるなぁ、とかバカげたことを考えてみたりして。
やりたいこともやるべきこともあるし、それに向かうことはできるんだが、専心することはできずに、けれど、己の一歩前を気持ちが歩いているような感覚。
追い越して引きずることもできないし、それが先走るのを追いかけて走ることもなく。
この一歩のゾレというのが、微妙に気色悪い。
結局この数日、ものを書くための時間は結構あったはずなんだが、楽しんで、一歩分のゾレがなく書いていたのは、あるかたに差し上げてるメールノベルのようなものだけか。
裏でアップしてるメールパーティの原型なんだが、これだけはぞれることなく面白がっている。
一歩分を修正するために、久々にここに上げてある昔の……ったって数ヶ月前に書いたものだが、それをつらつらと読み返してみた。
なんかいろんなパターンのキャラが存在するために性格づけが曖昧になってきている塾ものなんか、初期の読み返すと青褪められるネ。
で、今日、同時に書き出して書きかけになった話が五本。
一気にいけるかと思ったんだが、ダメだった。
なんか、「これだ」という、提示するに充分な、せめて私にとってインパクトのあるシーンや言葉、あるいはテーマが出てこない。
とはいえ、作者が入り込みすぎないほうが、モノとしては良くなりそうなんだが、今はそんな冷静に書きたいわけでもなく。
雨は完全に上がったが、やはり今一つはっきりしない天気。ましてや今は深夜だが、こうなったらふらーりと散歩にでも行ってこようか……。
2001年10月12日(金)
「クラシック」
原因は分かってるんだが、ここ一週間ばかり、やけにクラシックばかりBGMにしている。
元々音楽に関してはアイドル歌謡曲と流行もの以外はほぼなんでも聞くという無節操さなんで、うちにはクラシックと並べてヘヴィメタルからテクノから、果ては三味線だの琴だのまであるんだが、現在はひたすらクラシック(と氷室京介のベスト)。
しかしアリア集だのなんだのとウツクシイ音楽聴きながら、書いているのがアメリカのテロについての雑文だったあたり、何か間違ってるような己。
そういやたまたま立ち読みしたフライデーでビンラディン(の写真)を久々に見たが、やはりこの男の目は深いと思う。
思想云々については、真っ向から対決したり批判したりできるほど、世界についても宗教についても私は詳しくないが、やはりそれがテロリストたちであれ、人を引き付け動かす男の目には奇妙な透明感がある。
以前にテレビでちらりとインタビューシーン見た時から思ってたことなんだがね、これ。
実際に会ってあの目を見ながら話を聞いたりしてしまったら、たぶん、引き込まれるんじゃないかと思える。まあ、イスラム圏の言語なんて私にはわからんが。
笑いや怒りで誤魔化されることもなく、真っ直ぐに相手(カメラ)を見据えられる彼の思想は、たとえ歪んでいようとも、危険であろうとも、俗な大統領や議員閣下たちよりは高い位置にあるのかもしれんね。
まあ、こんなものは私の感性の話で、高い低いだのなんだのは置いといて、第三次世界大戦勃発かという現状の前には、半端な思想や観念なんて意味はなすまいよ。
神に支えられた信念は、たかが暴力では粉砕できるとは絶対に思えん。
戦争の決着は、それぞれの国の持ちえた暴力の大きさによってつくだろうが、それで脅威が消えることはない。
2001年10月13日(土)
「オリジナル」
なんか、二羽の鳥さんから「オリジナルもっと書かないの?」というようなことをいわれてしまったので、それぞれに返信するより、ここで私のオリジナル観についてちらりと。
はっきり言って、面倒臭い(←殺ル?
いや、あえてオリジナルでやる理由というものが見当たらないのに、キャラ作って世界作ってテーマ決めて、という手間をかけることに、あまり意義を見出せないのである。
もちろん、これまでにオリジナルで書いてきた話というものはあるが、そのどれもがバカげた長編で、単純に文庫に換算すると、短くて五冊、長けりゃ二十冊というレベル。
そういうのはもう、そこに生じたキャラクターを、誰に遠慮するでもなく動かすことが面白いから続くんであって、「小説」としての構成とか良し悪しとかは度外視している。
つまり、あくまで自分と、極一部の友人の趣味のためだけに書いているクォリティ無視の玩具。
それを、こんな公の場で出す気はない。
だいたい、わざわざオリジナルであれこれ設定して書くより、既存の世界を拝借して、既にそこに存在しているコマを動かしたほうが断然量が書ける状態で、あえてゼロから作る気にはなれない。
というか、オリジナルには世界と登場人物を作り出す、という余計な手間がいることになるんだが、そこまでして表現したい、せずにはいられないようなものは、今のところないのである。
何に触発されるのでもなく、自分の中から湧き上がってくる「書きたいテーマ」なんてものは、ない。
ところで、パロディでものを書くタイプには二通りいる。
一方は、まるで実在の人間に恋するようにキャラに惚れこんで、のめり込んで、「そのキャラを己の描くように動かそうとする」タイプ。
これは、キャラクターが何より先にあって、その辻褄を合わせるため、キャラの隙間を埋めるために話を作る。
大抵の人はこっちじゃないかと思う。
私は、「原作でも日常でも、何かに触発されて言葉にしたいと思ったものを表現するのに、世界やキャラを拝借して動かす」タイプ。
だから私は、特定の性格設定に縛られることもないから、ほとんどオリジナル同然に好き勝手に、エッセンスだけを抽出し時に濃縮し、話を書き付けていく。
はっきり言って、前者にはオリジナル書く気なんてほとんどないだろう。
で、私の場合、それだけ好きにやるならオリジナルにしても良いわけだが、オリジナルにする必要もまたなく、ならば読み手が多いパロディに託したほうがいいわけだ。
ただ純粋にオリジナルの小説、としたほうが、最終的に読んでくれる読者数は圧倒的に多くなるかもしれないが、多くの人を問答無用で楽しませるためには、並ならぬ才能が要る。
しかしパロディにしておけば、その原作が好きであり、キャラクターを好きであれば、それだけで既にいくらかは楽しめるわけで。
というわけで、一人でこそこそ書いて悦に入っているならともかく、誰かに見てもらいたい、伝えたい、という思いがあればこそここで公開しているわけだし、だったら、最も読み手の多いもので書くのが、理にも利にも適っているというもの。
長期的展望は持っていない。
先のことは考えない主義だから、とりあえず目の前にあるものなら、その形もはっきりしているし、全力投球もしやすいというもの。
まあ、小人は小人なりにいくらかは己を見て、今現在の己が最も自然に、楽に、それだけにフルパワー出せる状態と信じた姿勢でいるということだとでも思ってもらえれば。
もしオリジナルを書くとすれば、キリ番とかでリクエストされた場合(ex.『空にて』)か、それとも、既に書いてあるものを発表する場合(ex.『Twenty Years old』)、あるいは、パロディであってはならない場合(ex.『絵美へ』)に限られる。
あと、もう一つだけ理由があるとすれば。
パロディは、その原作が持つ彩りや香の中に、ある程度作者の個性や内面が隠されるが、オリジナルはその世界、人物、全てがなんらかの形で作者を反映している。
私はこのネット世界では、あまり「自分そのもの」を提示したくはない。
プロフィールがことごとく非公開になっているのも、その辺に理由がある。
私が切り取って見せている「私」は、どれほどディープなところから切ってきたように見えても、全て私の支配下にあるもので、それが人にどう受け取られる可能性があるかは、ある程度考えてある。
実際に会える人、あるいは友人として親しくメールなどやりとりするようになった相手には、隠しても意味がないから、あるいは友人としての礼儀として、そう「作った」己で接することはないが、この何処から誰が見ているとも知れない海の中では、私はあくまでも演じることを選ぶ。
コントロールの効かない「己自身」を出して、感情的に周囲を狼狽させたり傷つけたりするよりは、ここも一つの舞台と心得て、役者であったほうがいいと思う。
だから、その一環として、無駄に「私」を推察させかねないオリジナルは、よほどのものでないかぎり、出さない心積もりでいるのである。
生々しい隣人より、何処までが本当か分からないエンターテイナーのほうが、見ている分には面白かろうさ。
2001年10月14日(日)
「ゲーセンってのはね」
よくいる困ったお客の話。
UFOキャッチャーとか、いわゆるクレーンゲームやってて、「もう1000円使ったのにちっとも取れないんだけど」とか文句言ってくる人。
その気持ちは分かるが、なんか勘違いしとりゃせんか、それは。
そもそもそれは「ゲーム」であって、「とれるかとれないか」遊ぶためにお金入れて遊んでるわけである。
景品はあくまでも、ゲームの勝者に授与される賞品であって、だからそのテの景品とるゲームのことを「プライズ(賞品)ゲーム」と言うんである。
だから、そもそも誰にでも必ずとれるようなものではないし、店としては、コツやテクさえ見つければ、身につければ必ずとれるように設定はしている。
実際、アームにつけるバネの強さや、アームについているツメの大きさをあれこれ変えては、設定するのはかなり苦労する。
全くとれないようでは問題外だし、とられすぎては商売が成り立たない。
原価が400円くらいの景品を入れるなら、せめてその倍はお金を使ってもらわないと困るわけで、一発でとれるようにはまず置かない。
一度倒して、とか、山を崩して、とか、とにかく三度目くらいにとれるようなポジションになり、上手ければ四度目でとれる、というような微妙な設定になるように苦心している。
なわけだから、一発でとろうなんて考えそのものが甘い。
お金を費やしてとれないからといって、文句を言ってくるのは見当違いなんである。
もちろん、中には絶対にとれない設定になってしまっているものがないわけではないから、どう頑張ってもとれない時、もしそういう疑いがあったら、店員にやらせるといい。
それで店員がとって見せれば、「とれる」設定なわけだし、よほど間抜け、あるいは新人店員でなければ、何処を狙えばとりやすいかくらいは教えてくれる。それはサービスというもんだ。
たまーに、一発でキャッチしていく上手い人ってのは、コツを知っていてテクがあり、かつタイミングを心得ているから、と言っていい。
要するに、自分で「とれるようにする」のではなく、前の客が崩していった後とかに、一発でとれるようになっているものを見極めていることがほとんど。
そうでない場合は、店員より一枚上手ってことか。
まあ、「とれなきゃヤだ」って人は、クレーン「ゲーム」なんかやらないで、素直に類似した商品を買いに行ってくれ。
ゲーセンはあくまで「ゲーム」を置いているだけで、客はその「ゲーム代金」を支払っているに過ぎない。
景品は、あくまでオマケ。
とれるかどうか、ということそのものを楽しめない人は、精神衛生上、&経済的にも、ゲーセンになんか行かないほうがいいんである。
などと書くのは、かなり鬱陶しい客に遭遇したからなんだがね。
「とれないよー」といってくるくらい珍しくもないんだが、そう言われて実際にとって見せれば、今度はそれをくれと言い出す。断れば、一発でとれるように置けという。
そんなんじゃ商売にならんだろうが阿呆。
冗談半分に、もらえればラッキー、くらいで言ってくるなら「寝言は寝て言ってネ★」くらいで済むが、本気で脅しにかかってくるから腹が立つ。
そんなわけで菩薩のよーな笑顔と慇懃無礼そのまんまな丁寧すぎる言葉を用い、上記理屈を一気に説明し、諦めていただいた次第。
まったく……ゲーセンには「ゲーム」やりにきてくれってんだ。
2001年10月17日(水)
「苦言」
つか、爆弾?
あるいは地雷。
何処とは言わないが、とりあえず男塾とかPSOサイトに限らない、私が立ち寄る中にあるサイトを見てのことなんだけど。
そこの管理人さん(仮にAさんとしておこうか)は、絵も小説も並以上で、プロとして通用するかどうかは私に分かることではないが、普通に、来る人を楽しませるのには充分すぎるクォリティのものを作り出している。
そのAさんのところには、そこを訪れる他のかた、他のサイトの管理人さんからの贈り物なんかも結構置いてあるんだが、それを見て少し。
それを、というか、それらの贈られモノへのコメント見て。
或る程度の水準をもったものを書ける人は、それなりに他人の作品の良し悪しを、文章的な読みやすさ、という点とかでなら判断できると思う。
なにせ、どんな面白いネタも、読みやすい文章で書かれていなければ、読み手の中に入りづらいのは確かで、「面白い」と思える話は少なくとも読み手にとって読みづらい文章ではない、ということだろうから。
だから、Aさんは、送られてきたモノの、ネタそのものの面白さとは別に、文章そのものについても、ある程度何かは感じている、と見ていい。
で、贈られモノへのコメントなんだけど、ネタそのものは面白いかもしれないが、文章としてはなんだかな、というものにまで、大絶賛に近いものを書いている。
本当にそう思って書いてんのか? と思わずにはいられん。
もらいものだし、うちはもらいものはアップするようにしてるし、だったらこれもアップしないわけにはいかないし、アップする以上、褒めないわけにはいかないし。
なんか、そういうのがモロ出てるような気がして、そのAさんのこと自体ではなく、そういう傾向にある周囲全体が、嫌になった。
はっきり言ってクォリティなんかどうだっていい。上手い人以外書いちゃダメだってわけじゃまったくないし、「見て」というのは、自己顕示欲プラス、やはり贈る相手のかたへの好意でもあるだろうから。
ネタ面白けりゃそれでいい。
そのネタを思いつくのだって、ちゃんとした能力だ。
問題は、それを無駄に派手に褒める者のほう。
とはいえ、太字にした部分、これは貰い手、贈られた側にしてみれば、「礼儀」めいて無視できない感情だ。
趣味の範囲でやってる書き物、楽しみとしてしていることに、辛口の評価なんて、誰だってされたくないだろう。
それに、楽しみの範囲でやっている人ほど、自分のものに口を出されたがらないものだ。
何か腹に持っていて、上手くなりたい、いいものを書きたい、と思っている連中は、プライドもあるから、批評については確かに反発もしてくるが、逆に、「そう見えた」という事実を自分で許せないから、もっといいものを作りたい、腕を上げたい、と思いもして、キツめのチェックもがっちりと受け止めてくる。あるいは、「俺はこういうつもりでこうした」と自分の意図をはっきりとぶつけて、自分自身を確かめようとしてくることが多い。
楽しいからやってる、という相手。
歯に衣着せぬ批評を言えるわけではない浅い付き合い。
そういった中で、「とりあえず褒めとけ」というスタンスになるのはやむをえない。
が、褒めるにしても手放しに、無理やりこじつけたみたいに褒めるのは、見ていて白ける。
はっきり言ってそれ、完璧ただの嘘だろ。
それに、そんな「下手の横好き」みたいなものまで手放しで褒めてるんじゃ、他に「腕に覚えあり」と自負して贈っている人たちも、「こいつ、俺のも適当なこと言ってんじゃねえのか?」と疑わずにはいられなくなるぞ。
上手い下手なんかどうでもいい。
そんなこと気にしてたら、自分の楽しみ一つ満足にできない。
楽しいからやってる。別に上手くなれなくてもいい。それで何が悪い。むしろ楽しいと思えるものを知ってるだけでも、何が楽しいかも分かってない奴よりよっぽどいい。
下手の横好き大いに結構。好きこそものの上手なれ、とも言う。今は下手だろうが、面白いと思って続けていけば、いくらかはこなれてくるもんだ。
己だって、いくらかの自負はあれど、「上手い」とは思ってない。
自分にとって読みやすい文章、いいと思えるモノが、他人にとってもそうかどうか、なんてなんの保証もないんだから。
一時期にせよ、世間に通用する、と判断されて「プロ」になったことがあるのは事実でも、今がどうかなんて知れたこっちゃない。
今もって雑文の仕事はくるが、ほとんど全て、小手先の技術だけでどうとでもなる論評の類が大半だし。
私が好かんのは、作品の良し悪しそのものではなく、偽りの称賛を吐くことのほう。
嘘をついてまで褒めるくらいなら、褒められるところ、いいと思ったところだけ褒めて、あとのことには何も言わないほうがよっぽどいい。
褒めるのも宥めるのも社交辞令、付き合いのうちには仕方のないことでもあるし、必要なことでもあるが、少し冷静に見れば空々しいほどの嘘までついて褒めて、いったい誰のためになるんだ?
書き手がそんなものを真に受けて天狗になってもろくなことはないし、褒めるほうだってその場を誤魔化しているだけで、あとでまたそいつが、本心では「しょうもない」としか思えないようなものを贈りつけてくれば、また嘘のコメントでどう逃れようか頭を悩ませることになる。
第三者として見ているほうも、作品とコメントが食い違いすぎていれば、いくらなんでもこりゃ嘘だろう、と気付いてしまうし、そんな偽善は見ていて面白いものじゃない。
かなりきっついこと書いてる自覚はある。
かつ、かなり偉そうだなー、とも思うから、「何様よ!?」と言われることは覚悟の上と言っていい。
ただ、それでも勘違いしないでほしいのは、何かを作って人に贈ることそのものや、その質なんかを云々する気はまったくないってこと。
上手い下手なんかどーでもいい。
手作りのお菓子とかって、よほどちゃんと作らないと「美味い」とは思えないけど、「作ってくれた」「分けてくれた」ってだけで、すごく嬉しいものだ。
作品の贈り合いってのは、それと一緒だと思うから。
「見て」と言ってきてくれることの背後には、「この人に(も)見てもらいたいな」という気持ちとか、そういう気持ちを持つだけのつながりとか、好意とか、興味とか、いろいろあるだろう。
喜んでほしいとか、笑わせたいとか、何かあればこそそれを人に見せるわけだし。
それに、自分でサイト持ってはおられないものの、相当ハイレベルなものを作り出している人も見受けられるんだが、そういうかたの作品は、誰かのサイトに送られてこなければ己らは見れないんだから。
言いたいのは、送られた側は嘘ついてまで褒めるな、ってこと。
そんなもん礼儀でもなんでもない。
むしろすべての人に失礼だ。表向きは誰の気持ちも傷つけない配慮のようでありながら、実際にはこれほど人を馬鹿にしたこともない。
かつ、自分の発言の信頼性にも関わってくる。
はっきり言って、そのAさんのところに私が何かを送ったとして、褒められたってまったく信用できん。
だから私は、何人かの鳥さんには言っているが、作品に対するコメントとか、作者へのコメントにおいて、嘘だけはつかん。
面白いと思ったところを面白いと言っている。
面白くないところは、けなさん代わりに褒めん。
それゆえ、私の告げる「評価」は、すべてを語ってはいないという意味では真実でないかもしれないが、少なくとも嘘でもない。
こういう「建前評価」が浮き彫りになっているのを見てしまうと、自分のものを誰かのサイトに差し上げる、ということも、自分のところに誰かのものをもらう、というのも、やりたくなくなってくる。
前述のAさんが、文章としての良し悪しに気付かず、本気で絶賛してるんだとしたら、書き手としてはともかく、読み手としてはなんだかな、ということになるが、何もAさんだけに限ったことではないし。
どう見たってバランス崩れた絵とか、どれ見たって同じにしか見えない絵を褒めちぎってたり。
作品に対するコメントだけじゃない。BBSとかも一緒だ。
無駄に過剰な称賛見るたびに「あんたら本当にそう思って言ってんのか?」と思わずにはいられん。
本当にいいと思って褒めているとは到底思えんほど、過剰なものがいくつか(何人か)見受けられて。
書き手は思う存分やればいい。
上手い下手なんか気にしてたって始まらん。
だから、評する側はそれを惑わすようなバカな発言はせんでくれ。
やたら褒める奴の言葉ってのは、もう本当かどうか分からないんだよ。
前々からずっと思ってることで、話の中に台詞とかで出したこともあるんだが、「イエスとしか言わん奴のイエスに信用はない」と私は思ってる。
ノーと言うときもある奴が言うからこそ、イエスにも重みがある。
面白くないものを面白くないとこき下ろす奴が「これは面白い」と言えば、そいつにとってそれは本当に面白かったんだと分かる。
もちろん、浅い付き合いの中で、そういう腹を割った評価なんて、しないほうが絶対にいいが、それにしたって、真実が見えなくなるほどの愛想笑いは勘弁してくれ。
こういうことを書くと不安に思ってしまう人がいると思うので、本人に分かるように言っておくと。
ほとんど全てといっていいほどいろんな話に、好意的な評価をくれて転がりまわって融けてくれる「アナタ」の言葉は、嘘だとは思わない。私は、私と、私の作り出したものを「面白い」とか「すごい」ではなく、「好き」だと言ってくれる人の言葉は、信用している。それに、嘘からは何も生まれないだろうに、アナタは私の話から絵を描いたりしてくれる。口先だけの褒め言葉ならともかく、その作業には労力も時間もかかっている。費やされた時と力が、そのまま真実だと思う。
極稀にだけれど、緻密な、物凄くながながーーい感想をくれる「アナタ」の言葉も、疑ってはいない。なにせ感想をくれるのは一部のものにだけで、つまりそれ以外については読んでいないか、読んでいても「感想書きたいっ」と思うほど心には響かなかった、という、それも一つの答えになっているから、わざわざ書いてくれたものについて疑う余地などない。
とりあえず、確実にこの日記を読んでいると分かっていて、この内容に傷つきかねない人はこの二人なんで、はっきりさせときます。他にも何人か、発言を信用できる人はいるけれど、日記読んでるかどうか分かんないんで省略。とりあえず、塾系であと二人、PSOつながりでニ人、ゲーム系で三人、その他でニ人くらいか。
この九人に共通しているのは、「私の作品について大袈裟には褒めない」というところ。
むしろほとんど感想寄越さないから、かえってたまの一言が信用できる。
PSO系の一人はかなり辛口だしな。
とまあ、長々と書いてきたが。
総括して言えば、こういうことよ。
ノーとは言わないほうが無難な付き合いなら、ノーと言えとは言わない。
が、イエスイエスと連呼するような態度はかえって信用にはつながらんのだから、そんなものを「礼儀」と思うのはよしたほうがいい。偽りの称賛で相手を惑わせたりノせたりすることのほうが、よほど失礼ではないか?
せめてここを読んでいる物好きかつ律儀な(というか忍耐強い)鳥さんたちは、自分の発言がそんなふうに軽いものになっていないかどうか、今一度考えてみてほしい。
もちろん、「私には嘘に等しい過剰な称賛に見えた」というだけで、本人は本当にそう思っているのかもしれんが、……それにしてもどう見たってわざとらしすぎるんだがなぁ……。
まあいいや。
他人様がどうだろうと、私があれこれ案ずる義務もなければ、こんなお節介も鬱陶しいだけだろうし。
それでも、誰か何か我が身に省みて、得るものがあればそれでOK。
「何様のつもりよ!?」と気分を害されたら……うーん、正直に言えば、これは私の偽らざる本心で、私はこれを信条として通していくから、謝る気は、ない。
ただ、もしそこに誤解があるようならば、それをなくそうとは思うけれどね。
あと、「下手」と私がこき下ろしている相手がいることは事実だが、だから、分かってほしい。私が「これ面白いよ」と言った時には、上手いか下手かなんてことはどうでもよく、実際に面白いんだってことだ。
「ここの表現いいなぁ」と言ったら、少なくとも私にはその言葉の繋ぎ方や動かし方が「上手く見えた」ということだ。
絶対的な権威、世間、そんなものに照らし合わせればどうかは分からん。あくまで私の感性とかにとってだが、下手だと思って見ているものもある以上、私が褒めた時、いいと言った時には、少なくともそれは嘘じゃない。
まあ、気になるところがあっても、要請がなければ言わないから、それで全部だと思わないほうがいいけどさ。
さー、爆弾バラまいたぞー、地雷踏みまくった気もするが、知ったことかー。
なんかもう、ホントに嫌気がさしたのよ、建前絶賛に、どう考えても過剰にしか思えないお追従の言い合い。
白々しくて見ているのも嫌で、日課のサイト巡りすら、そういうのがないと分かっているところだけになってるわ。
だって気分悪いでしょうよ。言ってることが何処まで本当か、信用しようのない相手の言葉が自分に向かって吐かれるの聞く(見る)なんて。
そんなわけで最近、特定の相手たちとのメールやりとり以外、ほとんどカキコとかしてなかったり。
……見るのも嫌だっつーところには、私からは過剰にしか見えない大絶賛とかも、本人にとってみれば正直かもしれず、上手い・下手にも確かなものさしなんてありゃしない。
そのことが分かってるから、「こいつくだらねえ。なにお世辞並べ立ててんだよ」とは言い切れない。
私の感性とか価値観で、他人の作品とか批評とか、決め付けられるわけもない。
しかし、イエスマンの発言は信用できない。
そんなジレンマもあるんだけどさ。
とまあ、なんかそういう内容の論文書いてるついでに、久々にビター&アグレッシブに吼えてみた。
確実に敵作った気もするけど、いいよ。それこそ、これであっさり「なにこいつ」と思う程度の味方とか仲間とか友人なんて、偽物でしょ。いらない、そんなの。
そうかもしれない、と思う誰かが、さらに自分自身でよくよく考えて、たしかにそうだと頷いてくれれば味方。
たとえ「それは違う」と思っても簡単には離れていかないなら友人。
考え方は違っても、それを少しでも理解しようと望み、これからも付き合っていきたいと思いあえれば仲間。
そういうもんじゃない?
2001年10月20日(土)
「17日の日記」
未だかつてなかったくらい、反響でかい。
いや、当たり前なんだろうとは思うけれど、これまでに一度でもメールくれたことのある鳥さん、たまにやりとりしてる鳥さん、頻繁に、あるいはほぼ毎日やりとりしてる鳥さん、そしてまだ一度もメールなどはもらったことのなかった鳥さん、あちこちからいろいろと届いております。
軽く流せる話題ではなく、決して軽くはない内容のメールで、答える側としてもマジだから、いや、返信に時間食うったら。
しかしいろんな鳥さんのくれるいろんな言葉が、己を振り返る鏡として、どれもしっかりと磨かれたものなので、少しも苦にはならんのだね、これが。
それにしても皆さんなんというか、人間できてらっしゃる。
というか、腹が立ってどうしようもないかたは、メールでわざわざ怒鳴るのもバカバカしい、と何もしないでおらるるんでしょうが、とにかくメールをくれた鳥さんたちは、ことごとく、あれだけ攻撃的な語調でも、がっちり受け止めてくださったようです。
しかし繊細な、基本的に優しいかたは、ひどく不安に思われているのも事実で、分かりきっていたこと、承知の上ではあったことながら、言葉の持つ力というのはそう侮ったものではない、と再認もすることに。
そしてあらためて分かることは、己の言動のツケ払うのは結局己だってこと。
まるで予想外のリアクションが返ってこようと、今度はこっちがそれを受け止めて、引き受けなきゃならん。
サイトの運営に自信をなくされたかたも数名おいでで、はっきりいって閉鎖とかを思い立たれたなら、私の楽しみも減ってしまうし、他のかたの楽しみも奪ってしまうことになる。
しかし、それで責められても構わんと思う。
それでおたおたして慌てて謝るくらいの、薄っぺらい言葉を吐いたつもりはないから。
あそこの阿呆烏のせいで閉鎖したところもあるってさ、と噂になろうと構わん覚悟でGOだ。
つか、慌てて撤回される程度の薄い言葉のせいで嫌な思いするよりは、何があっても押し通す覚悟のある言葉に押しのけられたほうが、まだしも救いはあると思うから。己の場合、だが。
これも、他の鳥さんたちにとってはどうかは分からないことなんだが。
でもまあ、他人の顔色うかがうあまり己の言葉一つ自信を持って吐けない、なんてのは、リアルだけで充分だ。
勢いで流してる会話じゃなく、考える時間があった上でこうして書き付けている言葉なんだから、せめてその時点での己にとって間違いのないことを、はっきり言ってやろうと思う。
ただ、全てあくまでも「私はこう思うからこうする」であって、他の鳥さんにそれを押し付ける気はなく、書き付けるのは、自己主張と、あとはこんな戯れ言が、己を省みるための切っ掛けにでもなりゃいいな、と思うからである。
2001年10月21日(日)
「ver.UPもいいけど」
ゲーセンの店員なんぞやっていると、どうしてもお目にかかる困ったちゃんその2。
店員を困らせるタイプではなく、他の客にとってイヤソなヤツなんだけど。
うちはビーマニUDXがカウンターのすぐ傍にあるもんで、その辺で待機してるとどうしても目に入るし、客の会話も聞こえてくるんだけど、たまに、ライトモードでやってる人を見て「ライトでやってるよ。ダセー」とか、レベルの低い(☆数の少ない)曲やってる人の後ろで「あんなん片手でできるよ」とか言ってる奴等。
おまへらは最初っからいきなり☆7だのアナザーだのランダムだのヒドゥン・サドゥンだの、できたんか、ああ!?
と、言いたくなるわけである。
(ビーマニをよく知らない人には分かるまいから説明するが(ビーマニそのものを知らない人は……そこまで解説する気力はナシ)、ライトモードというのは、落ちてくるオブジェクト(「−」こんなヤツね)が少なくなっていて、難易度もかなり低くなる、初心者とか苦手な人用のモード)
こういうのは客のマナーの問題で、「誰だって最初は下手くそ」ということも分かってないド阿呆どもの言うことなんで、法律さえ許せば殴り飛ばしてやりたいところなんだが、そうもいかず。
しかし昨今、音楽ゲームもひたすらバージョンアップ版が出るだけで、そしてどんどんマニアックに、不親切になっていく傾向すら見受けられるのも、問題だと思う。
ベラボーな曲数に、画面デザインにこだわるとろくな解説もできず、モードはどんどん増えるは、隠し要素はあるは……。
はっきり言って、元からのファンをひきつけておくのにはそれなりの力を有しているが、新しいファンを獲得するには弱いものがあると思えてならない。
この間実際に、初めてやろうとするらしいお客さんに「どうやるんですか」と聞かれたんだが、とりあえずのやり方を説明するだけならともかく、いろいろなオプションについても話そうとすると、非常に時間がかかる。
で、やる前からして「難しそうですね」とか言われるし。
私の説明が悪いんデスカ!?
まー、いろいろと理屈こねるより、なんにも知らない人が今からやろうとした場合、ビーマニもDDRもギタフリやドラマニ、キーマニ、ポップン、どれも全部追加要素が多すぎて、何をどうすればいいのか、初心者には非常に分かりづらくなってるってのは、間違いない。
分からないなりにやってみて、面白そうだと思えるかどうかはかなり微妙。
よく分かんないからもういいや、と諦める人のほうが多いような気もするんだが。
そのうえ、勇気出していざやってみれば、後ろのほうであーだこーだと偉そうなこと言ってるバカなんぞいた日にゃ、殴っていいという法律作ってくれませんか、という感じで。
ハタからそういうバカな奴見ててもムカつく。
音ゲーにかぎらず、格ゲーもそう。
「闇払いも出せねーの、こいつ」とか言ってんじゃねえそこの常連!
ゲーセンってのは「人前でプレイする快感の緊張感」みたいなのもあって、そういうのが好きな人には楽しい場所なんだろうが、シャイな人には怖い場所かもしれんね。
2001年10月23日(火)
「マジすごいと思った」
本日は夜にゲーセンにてバイト。
帰宅後、メールチェックしつつサイトめぐりに出かけたついでに、最近ハマったROOKIESのサイトさんで、リンクを辿ってうろうろ。
そうして辿り着いたとあるところの小説に、ちょっとモニターにガンつけレベルでどっぷりハマッてきた。
時間的にはすごく短い「シーン」を、登場人物の心理メインで書いていく手法なんだけど、言葉の使い方とか雰囲気とかが、とにかく私好みで、もうカッコいいとしか。
誰にでも好かれる文章ではないかもしれないけれど、精神的にオカしくなってしまった設定での独白は、淡々としながらも何か確かに壊れたような気配が漂っていて、ちょっと圧倒された。
上っ面の言葉の派手さなんかじゃなく、書き手の想像力が最大限に発揮されたリアル。
「小説」の内容とかじゃなく、その「文章」を見るために何度も読み返してしまうくらい、私は気に入ってしまったので速攻htmlのまま保存してFDへ。
まあしかし、私は一点集中型なんで、他にのめりこむものがあると脇見はしなくなるわけで……。
仕事が忙しいとか一週間近くろくに寝てないとか言いながら、しっかりルキズネタは書いてるあたりがもうダメだ。
2001年11月3日(土)
「カッコ悪い死に方談義」
毎度なんでそんな話しているのか不明なんだが、友人どもと、そんな命題で三時間くらい飲んでた(またかと言わないそこ!
そもそもは何かのマンガとかの話で、「カッコつけて死んで、本当の意味でカッコいいことってないよな」という話だった気はする。
しかしそこから、こんな死に方だけはしたくない、というような話題に。
「正月に餅を喉に詰まらせる、なんてのはギャグだよなー」
とか誰かが言えば、
「喧嘩止めようと割って入ってタコられて死ぬとかいうのも情けないねえ」
と誰かが言い。
そんなノリで喋っていたら、
「おまえ、アレ気をつけろ」
と言われた。
何かと思えば。
「よく手ェふさがってると箸とか口にくわえて運んでるけど、あれでコケて喉に刺さったら大笑いだ」
と……。
お行儀悪いから、とか言われるより、百万倍は説得力ありました、はい。
話は死んだあとにまで続き、遺品として整頓されて人に見られたくはないもの、の話に及び、みんなして、あれはやばい、これはまずい、と。
誰一人として、身辺整理せずに死ねる奴はいないことが判明。
しかし、それらのブツを今整理できるかと言えば全員がノー。
結局、いろんなものを諦めきれなかったり執着してたりする今は、まだ当分死にたかねーな、という結論に落ち着いてみた。
何もいらない、残したものを見られようがどうしようがなんとも思わない。
そんなふうに、全てを捨てられるくらい枯れるまでは死にたくない、ととある奴は言ったが、それに一言、さりっと友人K。
「ジジイになって死ぬ時でも、同じこと(あれは見られたくない、とか)思ってるほうがカッコいいって」
なんか妙に説得力のあるお言葉であったとな。
2001年11月4日(日)
「ここにいる理由」
現在まだ朝6時。
昨日の日記にあるとおり、バカな話しながら飲んでたんだが、実はその最中から、一つだけ、ずっと気になってることがあった。
飲もう、と言い出して酒を持ち込んできたのは、普段は自分から人を誘うことのない奴で、他に二人、ここんとこうちに泊まりこんでいるSと、うちで一休みして仙台まで行くらしいKと、結局四人で飲んでいた。
KとSは2時くらいに退出していった。
飲み会を言い出したTだけが残ってて、ダラダラとさっきまで喋ってたんだが、ずーっと、なんかあったればこそ、自分からうちに来たんだろうな、とは思ってた。
案の定何かあったわけで、それをSとKがいなくなってから聞いていた。
深刻な悩みであるほどに、他人がどうこう言えるわけじゃない。
本人にしたところで、考えても考えても答えが出ないからこそ悩むわけだ。
とるべき、あるいはとりうる答え、手段が見えても、それをとれないから踏み出せなかったりするんであって、彼等が聞きたいのは「正解」なんかじゃない。
話を一通り聞くだけ聞いて、一時間くらい、お互いに喋らずにただ飲んでいた。
私はTの言ったことの意味、奴がそれをどう感じているのかとかをできるだけ的確に理解しないことには、何を言えばいいのか、迂闊なことは言えないし、Tとしては言うだけ全部言った後で、たぶん、なんらかの反応を待ちながら、自分の言ったことでも反芻してたんじゃないかと思う。
一時間くらい、というのは、実はそうやって考えている間にはまったく気付かなかった時の流れで、ふと我に返ってみたら、それくらいたってただけのこと。
ただ、そのことに気付いた時、一つだけ分かったことはあったし、今はそれを言うことが一番いいような気がした。
黙りつづけて一時間、そんな時間の経過にも気付かずに、それに狼狽することもなくお互いが黙って考えていられる。
少なくとも、私とTの間には、その沈黙に値する信頼関係がある、ということだ。
言うだけ言って黙ってしまえる。相手が黙っていることを懸念せずにいられる。
誰か一人の、友人とはいえ他人のことについて迂闊な返事はしたくないと思う。言葉を探して時間を忘れられる。
Tが何をどう悩んでいようと、どう困っていようと、私が確実に一つだけ言えるのは、私はここにいる、ということだけだ。
ありきたりな、日常的な、勢いと惰性だけで流れて積み重なっていく日々の付き合いの中で、時々でも出会う、手加減のできないこういう時間が愛しいと思う。
そういう相手は大事だと思う。
それから。
何ができるかとか、何をしてきたかなんてことは、結局は人生において、さしたる価値も意味もないんじゃないかと。
誰かにとって己がどういう存在であるか、ということに比べれば。
そして、もう一つ。
ちょっと泣きたいくらいに嬉しく思うのは、これを書いている途中にかかってきたSからの電話と、Kからのメール。
二人とも、気付いていたらしい。
なんかあったんじゃないの、と本人には余計な詮索だから言わなかったようだが、結局心配して、私に尋ねてきてるし。
誰かに頼られたり、必要とされたりしている自分がいて、こういうイカす奴等を「友人」と呼べる。
いいことばっかりでもない日常生活だが、普段はその中に埋もれているものがどれだけありがたいか、見えるこういう出来事は、いいと思うのだった。
2001年11月5日(月)
「いや、マジに」
はっきり言って現在、全世界的に11月である。
考えてみりゃ、いつ誰が世界中の「月」を統一したのかは知らんが(高校時代に世界史でやったような、やらなかったような)、世界中を一つの観念でまとめるってのはえらいことじゃないか? なんてことはどーでもいい。
全国的には、もう冬である。
なに当たり前のことをほざきおるかと言われそうだが、とにかくもう春ではないし夏でもなく、秋ですらなくなっているわけである。
巣の更新などを済ませ、ハニィにメールを送り、さーて寝るかー、と思ったのが、あれは3時でしたかね。
……寒くて4時に目が覚めマシタ。
そして寒くて眠れずに起きている今は5時45分です。
その前は二日ほど寝てないんだがね、己。
別にこれネタでもなんでもなく、マジに、本当に、寒くてとてもじゃないが寝てられるような環境じゃないのだ。
冬用の布団手に入れないと、本気で凍死できるんじゃないか、これ?(汗
起きている間は気迫でなんとかなるんだがね。……そういう問題じゃない?
で、眠れんなら寝ようとするだけムダだと潔く諦めて、いやこれはきっと私に、寝とらんで話を書けという神の意思か!?
なわけないって。
ともかくまあ、寝ようとして結局眠れずに時間を浪費するくらいなら、起きてなんかしてたほうがマシである。
飯でも食うかー、と台所のほうへ行ってみれば。
明り取りの小窓が開いたままなんですが?(汗
そりゃ外気と変わらなくもなるわな……。
2001年11月6日(火)
「短慮」
あれこれ好き勝手に書き散らしているこの日記だが、見る人が見れば誰のことか分かるような特定個人のことについて、褒めているならともかく、けなしているようなことを書くのはまずいと自覚。
誰かについて私が批判的なことを書いた場合、たいていそんなものは、その時たまたまそう思っただけで翌日には勘違いだと分かることもあるし、確かにそう思いつづけていることでも、他の面を知っていれば「私も人のこと言えたもんじゃないしな」といくらでも笑えるものだったりする。
そんなふうに、誰かについて愚痴とか文句とか零したとしても、それはあくまでも「一面」だけを取り上げた批判で、その人の全てではないし、私がその人について思うこと、感じていることの全てではない。
けれど日記を読む側は、書いてあることにかなり影響された印象をもつものだと思う。
よほど思慮深くない限り、「ここに書いてあること以外にもいろいろとある」とは気付かないものだ。
それは、書かれている対象についてだけでなく、書いている私についても。
つまり、その人についても誤解させてしまうし、私がその人について思っていることについても、誤解されてしまうということ。
こういうのを短慮ってんだろう、と気付かせてもらった今日。
2001年11月8日(木)
「2年目のジンクス」
基本的に私、同じバイトで2年以上続いたことはない。
今回のゲーセンが初めて、2年を越えた。
続かないときは半月とかで辞めることもあるんだから、2年続けば、それからもまた続けていきたいと思っている場所でもある。
にも関わらず辞めてきた理由ってのは、いつも一緒だったりする。
慣れてきて、馴染んで、自分の立場とかが見づらくなり、なんらかの形で「『バイト』として言うべきでないこと、するべきでないこと」を言ったりしたりしてしまうんだったりする。
惰性でそこにいるようになっている事実が表面化する、と言ってもいい。
ただなんとなく続けていて、ただなんとなくそこに所属しているから、自分のことも周囲のことも、すべて「ただなんとなく」しか見えなくなっていく……んだと思う。
ゲーセン以前に働いていた本屋は、「そういった判断は社員がするべき」というラインに気付かなくなっていて、「バイトとして何処までなら許されるのか」がまるで見えなくなったので辞めた。
その前のカラオケ屋は2年たとうという時に潰れたんで除外して、それ以前のファミレスも、やはり店長と意見がぶつかり、「社員ならともかくバイトは方針に従っていればいいんだ」と言われて辞めてるし、その前も実は似たような感じで。
今回のゲーセンについては、その2年目に表面化する自分のいい加減さについては振り返っていたつもりだが、やはりダメらしい。
2年は経過したものの、それから二ヶ月とたたずに何かが表に出てきてるんだから、これも恒例のうちに数えられるだろう。
たとえば、単純にぶつかったとかもめたとか、そういうことで辞めようとは思わない。
今表面化してきたのは、「ただなんとなく」で続けている内に、自分のことがまるで見えなくなるくらい、怠惰になってきている、ということ……のように思う。
ダラダラやってるうちに、そのダラダラが普通みたいになってきてる。
そのダラダラで特に咎められることもなく時間が経過してきたから、ここにいる限りにはそれでいいような気もしていたのは事実。
だから、自分がいかに怠惰な(仕事ナメた)態度になっているか、頭では「不真面目だよな」と思っていても、身につまされるほどには感じない。
だから自分のそういう態度が、普通の職場なら許されないものだという認識が薄くなっていたのは間違いない。
テキトーにやっててそれで咎められもしないものだから、それで「ちゃんと」やってるような錯覚を起こして、この日記の中で、自分のことを忘れて他のスタッフのことをあれこれ言ってしまったりもするんじゃないか、と、ふと。
これじゃいかん。
だったら勤務態度を改めればいい……わけだが、もう馴染んでしまった環境の中で心機一転、襟を正して己が身を改める、なんてのは大した意志力が要る。
たぶん、周囲の黙認と好意に溺れるまま、やはりダラダラと続けることになりそうだ。
きっちりと姿勢を正して挑むものもあるが、日常の中での私はかなり怠惰でいい加減だから、そういう自律については……諦め入るくらいにだらしない。
まず間違いなく、なんの変化もないだろう。
前々から思っていたことだが、楽なバイトに甘んじていると、私のようなタイプの人間はどんどん怠惰になっていくもので、あのゲーセン、そういう意味ではかなり危険なトコロだ。
現に、これまでたとえば学校とか、約束、仕事、一度も遅刻はしたことなかった私が、ことこのバイトに関しては、寝過ごしただのなんだので、ごくたまにだが、遅刻するようになってきている。
簡単に休んでしまうのなど、それでも仕事は回るだろうしいいだろ、と甘く見ているから以外の何でもない。
これでは、「普通の」バイトなり仕事なりに戻れなくなりかねん。
だったら、いっそこの辺りで、怠惰でも特に咎められずにいるようなバイトには見切りをつけようか、と思う。
それに、6月頃からずっと日記を読んでいる鳥さんの中には覚えているかたもあるかもしれないが、私には、地元に戻れ、と親から話が出ている。
断絶同然でほとんど顔も見ずにかれこれ7年?くらいたっていて、その話が出たときには冗談でも御免だと思ったのだが、あれからだいぶたち、どうせならこのあたりで私が折れるのもいいかもしれない、という気もしている。
と、考え中。
地元に戻るといっても引越しとかいろいろあるわけで、そうすぐには結果にならないが、最速でいけば、今月中くらいになんとかしてしまいたい気もする。
思い立ってからあれこれ考えるのは私の場合、たいてい計画倒れになるからいかんのだ。
結局なんにもならんより、短慮と承知しつつも動いてしまいたい。
動いて生じた結果についてまた動く。そのほうがこの場合、いいような気もする。
ともかく……現在Am5:00で、今日はバイト入ってるんだが、休ませてもらおうか、と思わないでもない。
反省してねえだろ!? といわれそうだが、バイトに行けば、そこには日常会話があるし、仕事もある。仕事場、という張り詰めた場所じゃない、スタッフ同士わいわいやってるような空間だ。
そういう温和な「いつもの空間」を見てしまうと、別にこのままでもいいような気になりそうで、それが怖い。
基本的に穏健なスタッフばっかりで、いつもどおり、和やかに笑いかけてくれるんだろう。それを見ると、自分の浅薄な発言についてまで、まあ彼等に知られる前になんとかしたし、いいか、とか適当に考えそうだ。
それじゃちっとも居住まいを正したことにならん。
自律能力の低さゆえの甘えで、そんなものがいつまでも通じるわけもない。
通じないというならそれ相応に処断してもらうのもいいから、同じことを繰り返さんために、この辺できっちり、自分の身のふりについて考えておきたいように思うんだが……これも身勝手なんだろうなぁ。
と言いつつ、行って帰ってきて追加。
じっくり考えればいいよ、という言葉をもらってきた。
私は思っていたことだが、それを他の人がそう思ってくれるかは分からなかった「この選択は人生の分かれ目かもしれない」ということを、チーフのほうから言ってきて、少し驚いた。
それからもう一人、どうしようか考えてるんだが、という話をした人は、それを聞いて切実というか、悲愴な顔してたり。
なんつーか……人ってのは結構善意に溢れたものなのかもしれん、なんて考えてしまった。
私は何かと批判的で穿って考えるタチだから、つい他の人の言動について考えるときも、そういう自分を基準にしてしまうんだが、もっと皆、優しいもんなのかな、と。
別のところで書いているが、自分の短所→「短慮、あるいは深慮して見当違い」、これ、ものの見事に、自分で自覚していた以上にそうだわ(汗
2001年11月9日(金)
この日記に書くことについても、あらためて振り返ろうかと。
誰が読んでいるかもしれない、ということについては確かにそのとおりだと、はっきりと見せられて、その重みについて自覚した。
やはり頭でなんとなく分かってる「当為(そうすべき)」と、何かあってはっきりと感じられる「義務(せねばならない)」は違う。
そんなわけで、ここでまた一度、自分の姿勢というものについて考え直してみた。
日記は日記で、日常にあったもの、その中の感情について記すものだが、やはり公開されている以上、もう少し配慮が必要らしい。いや、らしいというか、必要なんだって。
一般化すべきなんな、と思う。特定個人の何か、ではなく、人づきあいしていけば出会うタイプの人間の何か、に。
そうすれば愚痴とかいう生臭いものを越えて、人間観察の論述にできる。
本人が見かねないところにその本人についての非難は書かない、というだけの対処でもいいのかもしれないが、やはり、楽しませたい、何か得るもののある場所にしたい、という矜持を持つなら、本人が見ないところならいい、というのは違うと思うし。
総じて言えば、公開している以上は日記もエンターテイメントであるべきで、リアルの生活に触れるにせよ、それはやはりちゃんと加工されなければならない、と結論してみた。
ネット上に現れる私は、リアルとは違い、一面だけを見せて管理人を演じていこう、とは以前から思っていたし、何処かで書きもしたが、それを日記という範囲にも徹底させるべきだ、と。
2001年11月18日(日)
興味ない、というのはいいが、己にとっては興味のないつまらないものでも、「あんなの何処が面白いの?」とかは言っちゃいかんよなぁ、と思ったりしてみた。
2001年11月27日(火)
「人をなんだと……(^^;」
先日会った友人は、「お土産♪」と言って、一升瓶入りの焼酎を持ってきた。
既にそれは、二度ほどの飲み会できれいさっっっぱりと消費されている。
それはいいとして。
先刻来た友人どもは、「お土産★」と言って山ほどの酒類を持ち込んできた。
既にここは、宴会場と化している……。
おまえら引越し手伝いに来たんだろうが!?
まあ、持ち帰るのにかさばるような「物」を置いていくより、さっさと使い切ってゴミだけにして捨てて行けるモノを持ってくるのは利口だと思うんだが、手伝いに来て何故昼間っから飲むかおまへら。
と言いつつ、実家に戻ればこんな真似はできなくなるのは分かりきっていることだし、だから今のうちに一緒に飲もうぜ、という気持ちが、なによりの土産なんだがね☆(珍しく白い星
しかし、この狭い空間に6人いるのは無理があるぞ、おい……(滝汗
2001年11月28日(水)
「どうしたことかPSOばかり」
四ヶ月ほど延々と男塾で突っ走ってきたかと思えば、ROOKIESに転んで(懐かしい言い方だ)いきなりそっちに行ったかと思いきや、ここのところ延々と、更新は何故かPSOばかり。
というか、引越し前の更新速度とは思えんぞ己。
まあ、昔からあまり歓迎できない状況が目前に迫ると(ex.テスト)いきなりノるというのはよくあったから、これもその一つなんだろうが、何故PSOなのかは謎だ。
って、謎でもないんだけどね。
パロディはやはり、どこかでその原作のキャラとつながらないといけないわけで、自由度は低い。いや、それでも私もかなり好き勝手やってるが、酔いから覚めれば「こう設定する必然性あるのか?」とか思うのも多々あって。
もちろん、それでも誰かに喜んでもらえたり楽しんでもらえれば、それが正義なんだから、そういうものを否定するつもりもないし、自分が酔いながら書いてたものも、大事なことには変わりない。
ただ、PSO系の話は、舞台はゲームとして用意されているが、キャラクターは、それぞれのプレイヤーのオリジナル。
それぞれのプレイヤーの作ったキャラが私の中に住まう場合もあるし(ヤンやタイラントなんかはそれが顕著)、キャラの外見なんかを拝借させていただいて、そこに私が性格を設定して使わせていただいている場合もあるが(ベータやフェイクはこれ)、私のキャラを含め、やはり自由度は格段に高い。
一つの物語の隙間を想像して埋めていくパロディではなく、広大な世界だけをもらって、そこで自在にキャラクターたちを動かせる。
既に出来上がっている、あるいは作られつつある原作を、まるっきり無視するわけにはいかない、というパロディに比べれば空想できる余地はあまりある、すなわち、空想の世界に遊ぶのは楽しい、というわけ。
オリジナルの話は、私は必然性みたいなものがないかぎり発表しない、と以前の日記に書いているが、このPSOものに関しては、オリジナルとはいえない。
キャラには原作者がいるし、彼等と遊んでいく中、話していく中で生まれてきた性格設定がある。
PSOというゲーム本来が原作なんだが、そこには、好きに自分のキャラを書き込んでいい余白がたくさんあって、一人一人、それぞれのプレイヤーにとって、「自分のキャラを軸とした原作」がある。
プレイヤー自身がはっきりとキャラの性格を作っていれば、私の書くものは彼等が「原作」である世界のキャラを借りたパロディでありつつ、かつプレイヤーの設定をかなり忠実に踏襲していることになる。
まあ、だから、関わりのない他のPSOプレイヤーの中には、他人のキャラがかっこよく動いてるの見てもつまらない、という人もいると思う。
自分のキャラに愛着があれば、それを差し置いて「救星の英雄」とか言われたってねぇ(笑)
まさに、PSO ver.2の売り文句、「英雄は一人じゃない」。
それぞれのプレイヤーにとって原作があり、正解があり、少し空想好きな人にとれば、自分のキャラがまぎれもない英雄だったりするわけで。
物語を物語として純粋に楽しんでもらえれば何よりなんだけどね。
……って、なにげなく書き流しているうちにこうも長くなったか。
どれくらいすればオンに復帰できるかはまるで見えないし、さあ復帰できるぞ、となったときにサーバーが残ってるかどうかも疑問だし。
この間べたちゃんと話してたけど、サーバーなくなってオフオンリーになったら、たぶんほとんどやらないと思う。
ものすごいレアアイテムとったりしても、それをとったそのキャラが装備できなかったりしたら、完璧に宝の持ち腐れだし。
何より、ありゃあものすごく質のいいチャットソフトだ(爆
一度に表示できる文字数こそ少ないが、打ち込んでリターンすればすぐに吹き出しとしてその言葉が出てくる。
普通のチャットだと、表示されるまでのラグや待ち時間にいろいろすることもできるが、私は短気なんであれは我慢ならん。他のことやりながらにしたところで、発言が反映されるまでが長すぎてイライラしてくる。
それに、あまりチャットしつつ別の人にメール書くとか、話書くとか、やりたくないしな。話し相手に失礼な気がして。いや、あくまで「私は」だけど、こんなものは。
まあ、サーバーはどんなに減っても、せめて少しくらい、プレイヤー数がほとんどいなくなるまで残しておいてほしいよな、とか思うんだが、採算とれないことをする企業があるはずもなく。
やはりここは、できるだけ早く復帰できるように頑張るしかないかぁ。
2001年11月30日(金)
「とりあえずラスト」
電話の契約がどうやら昼で切れたらしく、ここはネット喫茶。
それはいいんだが、AVとかオトナのオモチャ系を取り扱っている店と合体してるヤツだから、ホントはこんなとこ使いたくなかったんだがね。
最初に行こうとした、知り合いの店長がやってるところ、前もって電話してみたら「おかけになった電話番号は・・・」ときた。
おいおいおいおいお! このカードの番号が間違ってるのか!? それともつぶれたのか!?
というわけで、行ってみて無駄足になるのが嫌だったんで(片道30分かかる上に移動は自転車であるよ)この際細かいことにこだわってどうする、と駆け込み寺状態。
U-SAMプレイヤーから、今晩ラグオルで会えないか、という話が出てたんで、朝ライセンス購入してみればこれデスカ?
4時くらいにベータがいないかと思ってつないでみれば検索に引っかからないし、ってことは何か、ライセンス料まるで無駄遣いか。
こうなったら1ヶ月たつ前に無理やりでもつないでやるかコラァ!?
などと狂暴化してどうする己。
引越し後の状況については、見とおしがたたん、ということを、さっきアップした塾話『冬の嵐』でネタにしてるんで、暇だったら見たってやってください。
それはともかく、こっちにきて丸8年と8ヶ月。
さすがに、それだけ住んでいればいろいろとあったわけで。
ほとんど何を考えることもなく過ごしたチビの時の10年より、ある意味大きいのかもしれん。
人格とかの形成なんかをいえば、無意識だろうが幼少時の影響が大きいのかもしれんけれど、私の自覚できる物事や思考レベルでは、この約9年はでかい。
だって、小学校・中学校まるまる分デスヨ!?
そう思うと、かなり長いことここにいたんだなー、とちっとしみじみしてみたり。
つか、年バレますが、人生のほぼ三分の一だよ、この時間。
そのわりに、それまでの時間と比べると、短く思える。
何してたってわけでもないんだかね。
大学来て、そのままズルズル過ごしてただけで。
地元戻るったって、この約9年の間に、帰ったことがあるのは、最初の二年内くらいに二度ほどか?
その間に実家は引っ越して所在変わってるは、その住所と電話番号なんてここ半月前まで知らなんだしな(爆
帰る、というよりは、どこかで見た記憶のある場所へ行く、という感覚かもしれん。
こっちの何がいいというわけでもないにしても、やはり離れることにはいくらかの感傷めいたものもあるが……正直に言えば、私の関心は今後のネット環境オンリーですか?(ダメ人間爆裂中
まあ、はっきり言えばリアルの付き合いは面倒なことが多いと感じるほうで、気心の知れた奴といるのはともかく、その他大勢と関わるのは面倒で仕方ない。
私にはネットを介した付き合いのほうがはるかに性に合っていて、頻繁にメールを交わす相手、たまにでもしっかりした話したりする相手、書いたものを提示するということ、それを見に来てもらうということ、それで成り立つ空間のほうが「近い」気がする。
ほとんどの部分は彼方にあるにせよ、ここには取捨選択の自由があり、嫌だと思えば見なければ済む。
嫌だと思いながらも顔を合わせざるを得ないような、職場だの学校だのという人間関係よりはるかに気楽だ。
あまり健全な発想ではないかもしれんし、これに甘えてどっぷりつかってたってろくなことにならんのは分かってる。
要するに。
少なくとも心地よい空間が、サイトの運営を介して、またはPSOというゲームを介して存在していて、それを今までは自由に選べたものが、そこに不自由が生じるらしいという懸念から、非常に気がかりだということだ。
って、また何を分析してるか己。
まあ、そんな私のうだうだした屈託はこのへんにしておいて。
そういう空間を形成するのには、ただの場ではなく、やはりそこに通ってきていた人が重要でもあったことは間違いない。
そういったすべてのかたたち、つまりはこの巣のお客さんとPSO仲間に、とりあえずはこの一年、あるいは半年の、お礼を述べたいと思う。
がたがたうるさい奴だが、そんな奴の書く話、あるいは日記なんかでも、見に来てくれてありがとう。
それから、PSOの友人たちに関しては、一時期は毎日のように夜中にラグオルで会っては遊んで話しこんで、楽しませてもらった。
何より、そこから生まれたキャラクターたちは非常に魅力的で、いくらか私の趣味でゆがめられてはいるものの、しっかりと私の中に住みつき、私を空想の中で楽しませてくれている。
これはありがとうと簡単に言えることではない。なんというか、それ以上。
私にとって話を書くということは生きていることそのものみたいなところもあって、それを促進してくれる自分以外の誰か、という存在には、感謝なんて程度では済まないような気もする。
これは、毎度いろんなネタ話につきあってくれたり、ネタそのものをくれたりしてきたハニィ☆(二人)にも言えるか。
PSOおよびサイト関係の、特に親しいかたたちとであったときのことは、これでも意外にちゃんと覚えている。 そのことを思うとき、この30年近い人生の中で、これほど楽しく付き合え、また時には腹を割っていろんな話をした相手というのが、たった一年ばかりの間にこれほど増えるとは、と驚きを感じずにはいられない。
匿名性が高く、互いの一部のみをピックアップして見せていけるネットという環境の、これは利点なのかもしれない。もちろん諸刃の剣ではあるが……。
やはり、一つ確実に言えるのは、これで終いにはせんぞ、ということだ。
地元戻ったらケイタイ買おうか、とか今真剣に考えてるんだが、それもメールのためだしな。
U氏は積極的にキャラメールとかくれるし、玄武氏もカルマからレイヴンへの手紙、みたいな面白いものを見せてくれるときがある。やりとりがあまり稀になってしまうと、その機会も減る。それはあまりにも惜しい。
これまで毎日みたいに、妄想爆裂メールを交換してきたハニィたち、頻度は落ちても、やはり何かあれば知らせたいと思うねえさん嬢ちゃん、こういったかたとの付き合いが薄くなるのも嬉しくない。
ま、どうなるかは分からんが、こうやってつらつらと振りかえりつつ、自分が今何を一番求めているか、そしてどうしていくか、確かめたりしているわけであるよ。
とりあえず、節目の最後に。
皆さんホントにありがとう。懲りずに出没する気満々なんで、これからもよろしゅうお頼み申しますワ★