烏の足跡



2001年8月2日(木)

「夏祭り」

 ネタではなく、本当に今日か明日くらいから、夏祭りのはず。
 とは言え、仕事とバイトに追われ、出かける暇はない。

 己で花火だの夏祭りだのというネタを用いて塾話書いている今日この頃だが、そこにはかつて己が体験してきたことが盛り込まれてもいて、書きながら思い出し、それをネタとして冷静に扱う一方で、やはりどことなく懐かしくもある。
 もしここを見ている学生諸君がいるなら、本当に今のうちに、最大限、遊んでおくといい、と言いたい。
 己の生活のために金を稼がざるを得なくなると、いろいろと制約もあるし、社会における現実というものも差し迫ってくる。
 まして家を出て暮らそうとすれば、全てが自分に降りかかってくるわけだから。

 祭りに行く暇もなけりゃ、取材以外で旅行にも行けなくなった己としては、好き勝手、危険なこともやヴぁいこともやってきて、良かったと思っている。
 それくらい、今はできることがかぎられている。
 バイト場、仕事場と自宅。その中でほとんどモニターに向かっている状態だしな。
 ま、もの書いてるのは楽しいからいいんだがね。



2001年8月4日(土)

「浴衣ガールに告ぐ」

 夏祭り中日ということで、浴衣姿の娘さんたちがゲーセン店内をうろついていたりする。
 毎年、どんな店でもおなじみの光景で、毎年思うことがある。
 浴衣着るなら、それに似合う挙動をとってくれ。
 浴衣を含め女性の和服というものは、全ての所作が小さく控え目であって初めて美しい。
 つまり、大股で、パンツルックやスカートの時と同じような勢いでダラダラ歩いているのは、はっきり言って、ある程度の美的感覚を持っている人間からして見れば、かなりみっともないのである。
 それじゃ、せっかくのかわいい浴衣も、いろいろと凝った髪型も、どんな美人も、パアよパア。

 己思うに、どんな衣装にもそれに最も似合った動作というか、挙動というかしぐさというか、ま、動きというものがある。
 それを知っていて、着こなしの一つとしてそれに応じて振る舞うのが、本当のオシャレだ。
 形ばかりどんなに整えてみたところで、そこがなってなけりゃまったく意味がない。
 言ってみれば、強面のバリバリヤクザな格好したおっつぁんが、めそめそ泣いてるくらいにみっともなくて情けないわけ。

 だから。
 夏祭りには浴衣を着ようと思っているお嬢さんがた。
 それを身につけたら、膝から下だけで歩くことを気にかけてくれ。
 膝はくっつけたまま、そこから下だけを動かすつもりで歩くの。
 それが簡単にそれなりに見える歩き方するコツ。

 たまに、ある程度年配の婦人が、着物姿で裾を乱さずに階段を上り下りしているのを見たりすると、己は思わず感心して「この人は普段から着物なのかもなー」とか眺めてしまったりするのである。
 そういうね、サマになる所作というのを、身に付けてみてほしい。
 それがアナタ自身をより可愛く、あるいは綺麗に見せる一つの方法なんだからして。
 ホント、みっともない浴衣ガールなんざ、これ以上見たかねえのよ、己。



2001年8月6日(月)

「ラーメン」

 己、けっこうラーメン好きなんだが、最近「これは美味い!」というものに出会った記憶がない。
 バイト先のゲーセンの一階がラーメン屋ではあるものの、そこはスープがいまいち、はっきりしない微妙な味。不味いわけじゃないが、美味いと言えるほどでもない。
 近隣のラーメン屋は軒並み食べ歩いたが、何処もイマイチである。
 スープが美味いと具がイマイチ、とか、チャーシューは美味いんだが麺がどうも、とか。
 昨日の夜、飲みに行った帰りに寄ったラーメン屋は、そこそこ全てがいい感じなんだが、どうにも一味足りない感じ。

 そういえば、高速道路のパーキングエリア、「足柄」だっけか、あそこのラーメンはけっこう美味かった記憶がある。
 スープが濃いんだがあっさりしてて、後口がいい。
 ただ、ああいう場所の食い物って、かなり適当に作ってるもんなので、日によって人によって、味がバラバラだったりするからなぁ。
 思わず無言で食うことに専念してしまうくらいの、美味いラーメンに出会ってみたい今日この頃……。



2001年8月8日(水)

「人と共にいるということ」

 トラブルというほどのことはない、些細なすれ違い。
 サーバーのトラブルなのかなんなのか、とにかく相手には、私があまりにもそっけなくさっさとゲームを終わらせて落ちてしまったように見えた、ということ。
 掲示板を見れば相手が誰かは分かってしまうな。
 私は巣に戻ってきてそれを見て、まず何を思ったかと言えば、誤解させてしまったことに対して申し訳ないという以上に、嬉しいということだった。
 相手がなんらかの不愉快な思いをしたことは承知していても、少なくともその背景には、「そっけなくされたくない」という気持ちがあるわけだから。
 それはつまり、それだけ私のことを思ってくれているということだろう?

 たしか、何かの歌詞に、「好きだから些細なことを許せると思っていたのに、実際には好きだから些細なことが許せない」というような内容があったと思う。(カラオケで友人が歌うの聞いただけなんでうろ覚え)
 要するに、そういうことなんだろうな、と思うから嬉しい。
「なんだ、もう落ちてんのか。つまんねえ」
 とも思えるところを、なんでもういないんだよ、と腹立たしく思う、あるいは残念に思う、ということ。
 ろくに話をする時間もとってくれない、と不満に思うこと。
 会いたいと思ってくれること。
 たとえばなかなか会えないことに拗ねて、わざと興味のないふりをしてみたり、会えて嬉しい時に、素直に喜んでやるのがしゃくだから、平静を装ってみたり。
 恋人でも友人でもなんでも、そういうのは同じだと思う。
 相手を気に入るほどに、いろんなことを期待し、望むようになってしまうものだから。

 まー、そこから一歩間違うと「一緒にいてくれて当然」「毎日電話してくれて当然」「飯作っておいてくれて当然」とどんどん我が儘になって、やがて付き合いが崩壊していくのも、友人、恋人、夫婦、親子、共通することだがね。
 っと閑話休題。

 とにかく、毎日のようにオンラインにつないで、あちこちに友人もいるだろう人にとって、私は「大勢の中の一人」でしかないわけだ。
 その中で、いくらかは真面目な話をし、お互いの情報も交換し、多少特別であることは事実として認めていても、その人にとって重要な友人であるというほどに自惚れることは、できない。
 「私が或る人にとってどれほどの価値があるか」。
 それを確かめられる機会などたかが知れている。
 口先だけでどうにでもなる優しい言葉や、本音が別にあってもとれる親切な行動なんかは、なんの目安にもならない。
 優しさは、相手のためではなく自分のためにも、人に見せる。
 誰だって人に嫌われたくはないし、好かれたいと思うし、いい奴だと思われたいものだから。その手段として使える「優しさ」なんてものは、どれだけ見せられたところで、薄っぺらい幻想に過ぎない。
 むしろ、私の些細な言動に、怒ったり苛立ったり、不満をもったりすること。そして、それを隠せなくなること。そのほうがよほど、人の思いとしては信用するに足るものだ。
 見せたってなんの得にもならない、むしろ不利益を生むかもしれないものを、それでもつい見せてしまうほどの、何か。

 人の心なんてものは見えるもんじゃないが、それでも、自分の心の動きを幾度となく確かめてくれば、そう大差ないたいていの相手の心情というものは、予想できるようになる。
 そんなわけで今回の一件、「そりゃないんじゃないの」という反応は、私にはラヴコールにしか見えませんでした(ぉぃ)。
 だからといって、相手を振り回して反応を確かめようとするほど幼稚でもないが。
 ないんだが……ここのところ何度も、あまり熱心に会おうとせずに落ちていたのは、少しは、そういうのも混じっているかもなぁ……。
 一番の理由は、PSOそのものに熱意がなくなってきていて、人に会いたいからつなぎはするが、その人が来ない(フリーじゃない)となると、乱入するのも面倒だし、やってる意味がないから、さっさと落ちる、というもの。
 私は「その時共にいる人との付き合いを優先してほしい」と思っているんで、PSO・リアルどちらでも、既にできあがっているグループに押しかける、ということをしないしな。
 で、PSOの場合、メールでやりとりするにしても、相手によっては文字打つ速度の関係で、チャットとメールを同時に進行させるのが難しいこともあり、やはり「その場」の人たちとの冒険や会話に支障が出ることもある。
 そんなわけで、少し待ってみて体があかないようなら、他に目的もないし、さっさと落ちることになる。

 で……、もし私のことがさして気にならないなら、私がどれほどそっけなく呆気なく去ろうとも問題はないわけで、いちいち私が気にすることもない。
 しかしなんとなく、「そっけねえ」と思われているようなことを予想しつつ期待しつつ、去っていたところは、ないとは言わない。
 ないとは言わないが、悲観的にというか自虐的にというか、「大したこともあるまいさ」と諦めてもいたから。
 なにせここ一ヶ月ほどの間に会ったのは数回くらいだし、私がつないだ数少ない中でも、いつ見ても誰かと一緒にやってるわけで、その中で私の占めるウェイトなんてものは、大したもんでもないだろう、と。
 ……ゴメンナサイベタチャン……。

 とまあ、うだうだ書いてみたが、要するによ。
 自分の価値なんてもんは、どれだけの人に、どれくらい思ってもらえるかってところにあるんでないか、とあらためて思ったりするわけ。
 何ができたところで、何を持ってたところで、それが誰かにとって何かになっているか、が肝心だったりな。
 隠者みたいな生活するんでないかぎり、自分一人が満足し納得してたって意味はない。
 だらだらと、たりたりとなんとなく、思うままにあれこれやってきて、それはPSO世界でも同じだったんだが、それでも私という気まぐれな烏が、何羽かの他の鳥たちの中に巣を張ることができているようで、それこそが今、己がここにいることの意味と証なんでないか、などと真面目なことも考えたりしてしまったことであるよ。
 うわ、たまに真面目なこと書こうとすると意味不明だ。
 逃げよ。



2001年8月12日(日)

「自宅作業しすぎ」

 さすがに、昨日、雨に濡れてバイトに行き、着替えたとはいえ、エアコンききまくった店内で8時間過ごしただけのことはある。
 思いっきり風邪ひいたわい。
 なんかダリーな、と思いつつも昨日はほっといたが、今朝は頭痛くて全然ダメ。

 というのに、ネタを思いついた途端起き上がってモニターの前に座るのはよせ、己。
 そして一気に『奈落』『みにぱ2』『今ここに在る日々』を仕上げ、アップしてしまうあたり、己が愛しいわ、いっそもう。
 こうなると根性とか好きだからとかそういうんじゃなく、習性だな。

 いろいろと思うところがあって話を作っているわけだが、一つだけ決めているのは、「ただのストーリーとして読める以上のものを混ぜたい」ということ。
 ものの考え方や見方、人の心理というものなど、とにかく何か、読んでくれる人に伝えられるものがあればいい、と思って書くものがある。
 むろん、それが成功するかどうかは微妙で、時にはアップした数日後になって直しを入れることもある。
 誤脱字だけでなく、「この時はこういう表現しか思いつかなかったが、本当は不本意」なところとかを、「これのがいいかな」と思いつけたら、直していく。
 やはり、面白かった、という以上に、心に残るものを作りたいという野望はあるし。

 「それは分かるが、しかしだからといって、体調悪い時にはおとなしく寝ていてくれ」とか言われそうだな……。
 しかし私はあまり薬もきかんし、結局こうやっていろいろやってるうちに、熱は下がったしなぁ。
 とりあえず今は、PSOの黒ロボ話の続きと、「狂気」を感じさせる話を書きたい。
 今の目標はそれ。
 理屈ではなく、こいつはやばい、と納得させられる雰囲気、気配、そういうもののある話を書きたい。
 比較的『The end of the nightmare』(PSO)が成功しているが、あれは狂気より人間のみっともなさとか汚さがメインだからなぁ。
 『狂イ獣』も『涯の涯』も『奈落』も、いまいち文章そのものが完全にかみ合ってなくて、不満。
 読んだ人が「こいつマジまずくねえ?」とビビるようなのを、いずれは書き上げたいもんだ。
 なんて考えてる己が一番危険という噂。

 まあ、書き記すものの狂気も、参考にしてるのは結局自分の中にあるもんだし、まずはもう少し己自身が狂ってみることか?(ヤメナサイ



2001年8月15日(水)

 おいそれと簡単には書けないものを書きたい、という願望がある。
 プライドというよりは、見栄なんだろうし、くだらない自尊心なんだとも思うが、一応仕事としてやっていることでもあり、人より一歩前にいたいと思ってしまう。
 それは、人より優れていたいと思うからではなくて、それくらいのことをやってのけたい、という単なる挑戦と理想。
 そして、人の狂気を見極めようと試みる。

 自分の中にひそんでいるものが、表に出そうになった時のことを思い出す。
 偽らざる自分の本心を抉り取る。
 そうであればいい、ではなく、そうあるべきだ、そうあらねばまずい、という綺麗事を排除する。
 それが普遍性のあるものか否かは問わず、実際に起こったことのある、事実を取り上げる。

 たとえば日常の中で、微妙な苛立ちがふっと沸き起こり、目の前にあるものを破壊したくなることが、己には実際にある。
 今でこそ落ち着いて無難に暮らしてるが、以前はその衝動を抑えられず、出してしまうことがあり、そりゃあとんでもないことをしでかしたりしちゃったことも。
 そういう時には、ガラスぶち破って切れていく自分の手の痛みが、本当に心地好い。
 今でもカッとなると、とりあえず後先考えられないが、カッとならなくなってきたから、真っ当なんだろぉ。
 また、格好つけてクールや冷淡さを気取るのではなく、どんな大量虐殺も、自分の知人や友人などが巻き込まれているのでなければ、なんとも思わない。
 チキンレースで崖から落ちてみるとか、大乱闘の最中に殴られたのが最早気持ちよくて、殴りやがったそいつが「よくやったな」と妙に愛しくも思えて、快感のお返しするみたいにメチャクチャにしてしまったりとか。
 というか己、自分にとって興味も感心も利益もない見ず知らずの他人、殺したら悪い(申し訳ない)とは思ってない。
 相手の家族? 友人? 未来? そんなものが俺になんの関りがある? と思えてしまうのは、己(や一部の人間)だけなのか、それとも、一皮めくってみれば誰だってそうなのか。
 少なくとも自分の中にはそういうものがあり、ただ、犯罪を犯せば相応の罰があり、それと引き換えにできるほど強烈な衝動や感情ではないから、何もしないだけなのは事実。

 それは私自身の独特の狂気なのか、人間というものが根本的に秘めている、自覚もないままやがて常識なんかに削られて磨耗していくものなのか、磨耗されることもなく誰でも生涯抱え、隠していくものなのか。
 そんなことは知ったこっちゃないが、話書くにはネタだ。
 これをネタ扱いして切り刻んで料理する、それが一番の狂気のような気もするが(汗

 私の中にある、世間的には異常として扱われる感覚。表に出すべきではない感覚。
 その「狂気」をキャラクターに投影して形にし、人の前に曝し、私が企むのは、その人の中の狂気を揺り動かすこと。
 狂気をなんとなく理解できてしまうことで、その人に、自分の中に狂気を理解できる要素、すなわち狂気があることを、突きつけてやりたい。
 狂気を感じても、それはあくまでも物語りの中のことだとして楽しみ、自分の中の狂気はそのまままた眠らせて、そして世間で普通に暮らせるのが大半だろう。
 中には、目覚める狂気に怖くなる人も、いるかもしれない。
 なんにせよ、幻想の狂気を心地好く快楽として楽しんでくれても、それに怯えてくれても、私が私の狙いだ。
 というつもりで、イカれた話を書くことで、己の技量を試してみたくなっているわけだったりするのであった。



2001年8月25日(土)

「さすがに」

 さすがに、今はブルー。
 しかし私が沈んでいたからといって何かいいことがあるわけでもないので、さっさと復活して、今日中にもう一本くらいは話を上げたい。
 それが今、私がここにいる証でもある。

 さすがに。
 ここはバイト場でチーフもいるが、そんなことは無視して書かずにはいられなかった。
 いったい何のほうが重いのか、それを見失うほど私は馬鹿じゃない。

「痛い」

 ちとマジにアバラが痛い。
 おかげで右胸に力の加わるようなことができん。
 笑えんし、喋り方によってはそれだけで痛む。
 しかしキーボ打ってるかぎりには、姿勢的にも使う筋力関係からしても、全く痛まんというあたり、神の意思を感じるな(嘘
 というわけで、一本くらい話書いてから寝よう。



2001年8月27日(月)

「只今シカバネ中」

 なんか20m手前付近にいる心地です。
 非常にまづい。
 そんなわけでとりあえず寝ます。
 体力的にどうこうというより、精神的にかなりレッドゾーンですか?(誰に聞いてる

 今月の説法(謎
 分不相応にいい人になろうとしたり、立派に振る舞おうとはしないほうが無難です。
 聖人君子には、なりたい人だけなってください。
 肝心なのは、欠点を「仕方ねえな」と笑って許してもらえるだけの魅力や美点を身につけることと、その欠点ゆえに引き起こされる事態を引き受ける力を持つことです。
 いい人だと思われて慕われるより、仕方ねえなと呆れられつつ傍に置いてもらえることのほうが大切です。

 綺麗事や理想は、たしかにそれが実現するなら良いことかもしれませんが、無理に作り上げた綺麗さで、他の誰かの汚れを許せない狭い人間になるくらいなら、いっそ自分も汚れたまま、他人の汚れにも寛容になれたほうがいいでしょう。

 少なくとも。
 私の周囲には必要以上に綺麗な人間など要らない。
 綺麗であろうとし、他人にもそうあることを求めるような人間なら尚更です。
 ありのまま、我が儘でも無茶でも、困ったちゃんでもいい。それでも「仕方ねえ奴だな」と笑えるだけの魅力もまたそこにあるなら。
 よほどそのほうが、人には優しい。

 以上。



2001年8月30日(木)

「じさま」
 本日バイトからの帰り道。
 時刻は六時半くらいか。
 じさまが一人、かなり交通量の多い国道の、車線境界線(右車線と左車線の境目ね)をてくてくと歩いていた。
 ……何故に!?
 つかじーさんよ、そりゃ危ないだろう!?
 夜中とかならともかく、六時だぞ六時!
 仕事帰りの車がガンガンとおる午後六時!

 全く動じもせずによぼよぼてくてくと歩いていくじさまにもビビったが、その脇を速度も落とさず通り過ぎていく車の群れにもちょっと引いてみた。
 たしかに、停まって「危ねえよ」と声かける余裕もない時間帯だがよ。

 たぶん横断歩道のないところで渡ろうとして、半分まで行ったところで残りを渡りきることができず、仕方なく歩き始めたんだろうが、その泰然自若たる態度はナニ!?
 つか、誰か一人くらい停まってやって、渡らせてやれよ(汗

 そのじさまがどうなったか、いつ何処で渡りきったのか引き返したのか、それは私は知らない……



2001年8月31日(金)

「ばさま」

 顔の広さに関してはちょっと自信がある。
 特殊な知り合いも多いが、「なんでよ!?」という知り合いも多い。

 今日の昼、いきなり宅配便があった。
 予定に全くなかったんで、何ごとカと思ってみれば、昔北海道を旅行した時にお世話になった、ある民家のおばあちゃんからだった。
 思い起こせばン年前。
 ほとんど自棄っパチに近いほど衝動的に旅行を思い立ち、バイトはサボるわ大学の前期テストも放り出して北海道に行った。
 もちろん、ホテルだの旅館だの予約なぞしてない。
 その辺の駅ででも寝ればいいかー、といういい加減っぷり。
 食事に関しても目に付いた飲み屋で済ませるという、観光もクソもない、ホントにただのブラリ旅。
 そんなわけで、小さな飲み屋に潜り込んで食事を済ませた時、カウンターの隣にいたのがそのおばあちゃまだった。

 着物をきちんと身に着けた格好のいい人で、着物好きなだけに適当な着こなしは絶対に許せん!という私には、かなりツボ。
 趣味もいい品もいい、それでいて風格がなければ着こなせない渋い紫に落ち着いた朱金の帯で、手元にあったのがお銚子一本と焼き魚か何かの皿だったことも覚えてる。
 それくらい、小さな飲み屋には似つかわしくないのに、妙に馴染んでもいるような、まさに「端然」としたおばあちゃまだった。

 元は椅子一つ間に挟んでいたんだが、込み合ってきた時、二人連れのカップルを座らせてやるために一つゾレることになって、「お隣お邪魔しますね」と話し掛けられたのが切っ掛け。
 なにげなく、他愛ないことを話していて、思い立っていきなり出てきたから何も決めてない、ということを話した時、うちの隣が小さな旅館だから、紹介してあげる、と申し出てくれた。
 そんなわけでハナエおばあちゃまに連れられて、それから三日ほどそこに宿泊してた。
 アテもないし観光なわけでもないから、そのへんフラフラしてるというかなり得体の知れない私だったが、それだけに暇でもあって、ハナエさんのうちの縁側にお邪魔して、お菓子なぞいただきながらあれこれ話をしたり、まあ、思いがけず楽しく温かい旅行になった。

 それからふと思い出したように、元気にしてるかどうか気にもなるんで、手紙なぞを年に二通ほどやり取りしてたんだが、そのハナエさんから、いきなり今日の昼、お菓子が届いたのである。
 ハナエさんちのお菓子は全部ハナエさんか、お嫁さんの手作りだった。というのも、和菓子屋を営んでいるからなんだが。
 で、「今日作った蓬餅が思いがけず良い出来で、あの時最初に出したのも蓬餅だったから、ふと思い出して送ってみました」と。
 時期的に不安であることが書き記してあったが、なに、多少のイカれ具合で私の脳はヤラれません。……脳は関係ない?

 いや、美味だ。
 スーパーとかで売ってるようなのとか全く違う、本物の味。
 季節的に蓬は春なんだが、生の葉は風味が強すぎるから、それを、味を引き立たせつつ和らげるため、ヒミツの製法があるらといことは知っているが、それにしても美味い。

 うちは本物の祖父母はとうに亡くなっているが、ハナエさんのような知り合いもけっこういたりして、今もたくさんの「じーちゃん、ばーちゃん」がいる気分。
 そしてふと、そのハナエさんもいつまでもいてくれるわけではないのだな、ということを思うと、少し切ない味の蓬餅だった……。



2001年9月1日(土)

「写真」

 今日、バイト先のゲーセンに、一台プリクラ筐体が届いた。
 コナミの「セレブリティ・スタジオ」だったか。名前はかなりうろ覚え。

 実を言えば、プリクラなんてこれまで、撮ろうとか撮りたいとか、思ったこともない。
 付き合いで仕方なく一緒に撮ることはあるけど、自分は絶対にもらわんし。
 だからプリクラブームの時なんか、なんであんなに写りの悪い小さいシールを喜々として撮りたがるのか、まったく分からなんだ。
 今もって、なぜそんなに人気があるのか、好きだと思うのかは分からん。

 そもそも私は写真自体が好きじゃないからなぁ。
 うちにアルバムなんて一冊もない。あるのは、束の間預かってた子猫の写真だけ。
 実家にも、たぶんない。
 学校の卒業アルバムとかも捨てた気がする。
 何かのイベントで写真を撮ろうということになっても、まず写らない。写すほうに回るか、その場からいなくなってる。
 何が面白いのかも分からんまま、カメラに向かって笑うということができん。

 なんだかんだで撮らせた写真はいくらか友人の手元にあったりするが、全てほとんど「仮装」に等しいほど作った格好してるような記憶がある。
 某怪しげなパーティでの、イタリアンマフィアくさい格好とか、友人主催の本物の仮装パーティでヴァンパイアやってるのとか(阿呆
 何かを演じて写る程度なら諦めもつく。
 「自分」を写真にして残したいとは絶対に思わん。むしろ残したくもないし残されたくもない。

 何故嫌いかとか、理由については「なんとなく」としか言いようがない。
 が、かといって、「プリクラ楽しいよ」とか「せっかくだから写真撮ろうよ」というのを馬鹿馬鹿しいとは全く思わない。
 むしろ、それを楽しめるのはいいな、と思う。
 だから人のを見るのは好き。

 それにしてもプリクラ、アトラスが「プリント倶楽部」出したときに比べれば、画質も機能も非常に良くなった。
 今うちの店には「スーパー・キララ」「ティルティー・ショット」「チャオッピ」と冒頭の「セレブリティ・スタジオ」があるが、……機能が複雑化するにつれ、エラーが増えるのだけは、勘弁してくれ。



2001年9月8日(土)

「己の在り様や今に悩む諸兄へ」

 ほぼ丸一日前、「オリジナル」へ、十年ばかり前から積もっていた、過去の恥を曝してみた。(注:現在これは、移転に際して削除されています)
 一つは、今の自分の目から見れば形や言葉そのものばかり綺麗な、中身のない歌詞めいた詩文。
 けれど、当時どんな時に書き付けたのかはよく覚えている。
 幻想的な何かに触れた時とか、友達との間で何かあった時とか、「ものを作り出せる自分」に、その力量も顧みず酔っていた時代のもので、かなりなんというか、オイオイ(笑
 もう一方は、どちらかと言えば宣誓文に近いようなもの。
 実際に中にあったものを吐き出しておいて、形を整えた感が強い。唯一「問」だけは「詩」として書いたもので、22くらいの時のものだし、少し毛色が違うが。

 で、2ページ目のを今読み返していて、ふと思うのは。
 当時は読み返せば自分の中で何かが起き上がるような、私にとっては「力」のある言葉だったのに、今の私にはほとんど響いてこない、ということだ。
 何かを求めて足掻いていた時期を過ぎて、こうして当たり前にここに立っている自分には、その煩悶は過去のものだ、ということなのだろうか。
 それでも、今から見れば小さなことでも、それに取り巻かれて何も見えなくなって、こういう性格なんで泣き言も言えず、仕方ないから一人で必死にやってた時代は、恥ずかしくもあるが、可愛いとも思う。
 それで、あんなものをアップしておいて、今の私が、過去の私を見て、その人の反応らしきものを見て、思うのは。

 二十歳の時から七年分、私は明らかに違う場所にまで歩いてきた。
 かつては真に迫っていた心情の吐露を、今の自分には体感できない、というのがその証の一つ。
 そしてもう一つの証は、そんなふうに叫んだ十年前の自分に、「それもいいけどな、そんな無理するこたないんだぞ?」と苦笑できること。
 当時の私の煩悶のほとんどは、無駄な自負からきていたんだと思う。
 「自分は何かができる人間だ」という妙な思い込みが先にあって、そのわりに、つくりだすものや、人間としての自分自身には自信がなくて、思い描く自分にならないことには、人の期待に応えないことには、済まされないような気がしていた。

 今も、自分の中には理想の自分像がある。そうなりたいとは思う。
 ただし、人の期待は捨てた。
 なまじ万能タイプだったがために積もり積もってきた親の期待も(ほとんど親ごと)切り捨てて、「応えることに必死にならなくて済む自分」を手に入れた。

 こうありたい自分、が人の期待と重なっていれば構わないが、少なくとも、人の期待に応えるためだけに無理をするのはやめた。
 無理はやめた。
 自分にとって、何が一番先にあるのかが分かったから、余計な無理はやめた。

 「ナメられたくない」「高く評価されたい」
 昔の自分は、何より先にそんなくだらないことがあって、それに縛られていたと思う。
 いくらか得意なことを楯にして、ハッタリかませば、それなりに押しのある性格だから、周りもみんなそれにノせられた。そして「アイツはすごいヤツのはずだ」と思われているような気がして、「すごくない自分」を出すわけにはいかなくなった。
 自分で期待されるように仕向けておいて、その期待が重荷になった。
 それを誤魔化すために嘘を重ねた。
 誤魔化して振る舞う卑怯な方法を覚えた。
 たとえば失敗や敗北を誤魔化すために、ハナから本気にならないように。
 いかにも適当にやって見せて、「やってらんねえって」と笑ってやったり。

 で、今は思う。
 今もってかなり自信家ではあるから、自分を「それなりにすごい奴」とくらいは自惚れてはいるが、少なくとも、こんな自分にはとうてい及ばないもっと凄い奴もいる。
 それに、ある面では事実として私は突出した能力を持っているのかもしれないが(技量というより、その原動力としているバカさ加減には問答無用に自信アリ)、別の面ではかなりダメダメ。
 そういう、自分のトばした面とツブれた面を、それでも「まあいいやね」と受け入れた分、今の私は強いんだろうと思う。

 何かを形にして結果にして、人に褒められなければ安心できない、そんな子供の時代があった。
 その裏側には、人に認められたいという願望と、侮られるのは嫌だという弱さ、もう一つ、「私は凡人とは違う」というような、勝手な自負があったはず。
 だから、「なんにもならない自分」を絶対に許せなかった。
 自分の周囲にいる人にとって自分は大きな存在であるはずだ、という傲慢さがあった。
 ンなわけねえってな、己。

 私は私だ。
 まず何よりそれが先にある。
 何ができるとか人がそれをどう思うとか、そんなものは二の次、いや、三の次。
 肝心なのは、私にとってそれがどういう意味を持つか、何であるかだ。
 そしてその次に、それが人にとって何であるか。
 他人の期待に応えて他人を喜ばせてやる前に、自分の望むところを好き勝手やって、まずは自分を喜ばせるほうが先だ。
 その結果、他人にも喜んでもらえれば、それがその人にとっての自分(の価値の一つ)だというだけのこと。

 理想の自分でなければ好きになれない、なんてことはない。
 ダメなとこもあるにせよ、「こういうバカやる自分が可愛い」という程度でもいい、何か自分を許せるところがあるだろうし、何より、自分自身が好きだからこそ、人に認められたい、もっとすごい奴になりたい、と思うんじゃあないか?
 自分を嫌いだと言う人は、たいていは、そうなることのできない「自分の一部」、技術や性格の一部、習性なんかが嫌い、というだけなんじゃないかと思う。
 むしろ、自分好き好き度は他より高い。
 だからそういう人は、こう(↓)思ったらどうだろうか。

「これだけの何億という人間の中で、自分なんてとるにも足りないほんの小さな雑魚に過ぎない。その中で更に「あいつはすげえよ」と言われるためには膨大な力が必要だ。それは技量というだけでなく、エネルギー。
 自分は何かにそんなにバカげたエネルギーを費やしているのか? そんなフル燃焼するのははっきり言ってしんどくて、そこまでやってまで、欲しいものがあるのか? どうしてもこれだけは譲れない、というほど熱くなってるのか?
 たしかに、そうやって何かに突き進んでいる奴はカッコいいかもしれないけど、のらりくらりと生きてる自分だって、それでもちゃんと、バカ話したり、一緒に笑ったりしてくれる友達はいる」

 すごいといわれるのも快感かもしれないが、そういう他愛ない友達と、楽しい思いしているのが、まず何より先にある、安らぎ。それはあまりに自然すぎて快感とも思えないかもしれないが。
 すごいことやるのはいいが、「すごいな」と言われて、「こいつならやるはずだ」「この人なら失敗はないわ」と重すぎる期待を背負わされれば、その安らぎがどれほどの快感かが分かるだろう。
 すごいことなんかなに一つできなくても、友達や話し相手がいて、その人たちが笑ってくれるってのは、立派な価値だ。

 大きな自分でなくても愛せる、本当の意味での謙虚さを持ち、小さな自分を可愛がってやればいい。
 強がるのをやめて、大それたことを考えるのをやめて、今あるこのままの自分を、「おいおい、おまえよ」と思う部分も含めて「いや、俺はこんなんだし、それでもたまにゃ役に立つでしょ」と許した時から、私は今のこの場所にいるんだと思う。
 誰にも認められるようなすごいものを作り出せるのは、本当に選ばれた、一握りの天才だけだ。
 私にその可能性がないとまで見限ってはいないが、「そのはず」なんてバカげた誤解もしていない。もし私が本当に天才なら、かってに周りがそう言っているだろうし、時代が動くかもしれない。だったら、そうなったときにそうなんだと知ればいい。
 なんにせよ、偉業なんてなさなくても、私のことを好きだと言ってくれる友人はいるし、私に向けてメッセージをくれるたくさんの人がいる。
 そういった人に対して、私は笑わせてあげたり、楽しませてあげてりすることくらい、どうやらできているらしい。
 「あいつ面白ぇよ」と言われる、あるいは「あの人といるとほっとしてさぁ」と言われる、まずは小さな隣人であればいい。
 そんな自分を、愛すればいい。

 私はこの巣にいる。
 貴方がここに飛んでくるなら、貴方の傍にいる。
 私へと歌う声が聞こえれば、私なりの歌を返すだろう。
 この巣を訪れ私へと歌いかけてくる鳥たちは
 広い電子の森に住む、全て私の友人なのだと思っている。

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 余談。
 親に期待されない子も可哀相だが、やたら期待されるのもたまったもんじゃない。
 親じゃなくても、だが。
 そして私が今「こうあろう」と思うのは。
 誰かがそこにいて何かがあれば、期待はする。
 期待はするが、応えてくれとは望まない。
 応えてくれて当然と思えば、裏切られて失望することにもなる。
 適えばいい、応えてもらえるといい、と思っていれば、私にとっては裏切られることもないし、相手にとってはプレッシャーにもならない。
 適わないかもしれないものが適う。
 応えてはもらえないかもしれないものに応えてもらえる。
 であれば余計に、手に入った時が嬉しくもある。
 容赦のない期待や理想は、自分にだけ持てばいい。
 人に押し付けるものじゃない。



2001年9月11日(火)

「製作者の意図が分からん」
 本日、とある餓狼伝説好きな友達と食事に行く約束がしてあった。
 月に一度くらい毎度出かけてるんだが、彼女がうちにやってきて、いきなり目を輝かせ、
「ねえねえ、これ見て!」
 と私の前に出したもの。
 それは「ガチガチャ」(「ガシャポン、ガチャポン」)のカプセルだった。
 いったい何かと思う私の前で彼女は喜々としてそのカプセルを開けながら、
「あのね、昨日『バーサス』(注:「カプコンvsSNK」)のガチャガチャやったら、一発でギース様出たんだけど」
 彼女は熱烈なギースファン。
 ああ、そりゃ良かったな、と思う私だが、話には続きがあった。
「これ見てよ」
 と彼女が取り出して見せたのは。

 ドシフン姿のフィギュアただし下半身のみ。

 叫んでいいか?

 製作者はナニ考えてやがるんだイッタイ!?

 そりゃ組み立て式だから「下半身」というパーツがあるのはいいさ。
 袴の感じを出そうとすると膨らみを持たせることになるから、カプセルの中に収めるためにどうにかパーツに分けるしかないのも分かるさ。
 だが袴とボディを分けた挙げ句そんな細かいところに凝る理由があるのか!?
 ……ホントにナニ考えてやがんだイッタイ……



2001年9月14日(金)

「できること」

 アメリカのことなんだけど。
 実を言えば、たまたまある話に使おうとしてたネタそのもので。
 インスピレーションはシティハンターから受けてると思うんだけど。

 己に何ができるよ、と思えば。

 政治家にどんなに文句言ったって届きゃしないし、テロリストなら尚更だ。
 はっきり言って、理不尽な暴力に対抗できるのは、それを圧倒する暴力だけだってことは、さんざん喧嘩してきた己だから、綺麗事じゃなく、そうだと知ってる。
 けど、たとえばゾク同士の抗争ならどんなにデカくたってせいぜいで二百人、殺し合いじゃないから、たまたま死んでしまう者が出ることはあるとしても、一方が全滅なんてことはない。
 テロリストの暴力には、それを上回る暴力で応じて、叩き潰して殲滅して、根絶やしにする他ない、というのも、馬鹿らしいが一つの現実なのかもしれん。
 なんにせよ、アメリカが報復に動くのは愚かだとは思うが、凡人の塊にはそれ以外に何もできんのも事実。

 私が政治家になって叫べば世界が動くかってーとそんなわけは絶対になく、ということは、今の私ができることってのは、「私」ができることそのものでもあるんだろうと思う。
 で、己に何があるかったら、物書くことしかないじゃないの。
 本当は、ベタ過ぎる話なんで保留しようとしてたし、何せ「TENDER EYES」の最終話(付近)なんだが、書いてしまおうか、という気もしてきてる。

 どっかで吼えてるが、私は「私に関わりのない人の死」に憤慨したり涙したりできるほど優しい人間ではない。
 が。
 愛する人、家族でも恋人でも友達でもいいんだが、そういう人を失って嘆く気持ちは分かる。
 これから先に溢れていたはずの可能性をつぶされたのだと思えば、初めてそこで「ひでぇことしやがる」と思える。

 理不尽な暴力と、もたらされた見境の無い死と。
 残された者の怒りと嘆き。
 物語が人の心を絡めとって流れた時、その人を引き込んでそこにあるものを感じさせるのだとしたら、「世間一般的に可哀相と言われる無差別殺人」の可哀相さではなく、「なんでこんなことにならなきゃいけないの!?」という、我が事に等しいものを表せる。
 私にその技量があるかどうかは分からないが、それを目指して書くことでしか、私はプラスになるものを生み出せない。
 ただ吼えたところで誰も、肝心な奴は聞く耳持たんのだしな。

 一本話書いてそれだけで語りきれるとは思えんので、すぐに出せるわけでもなさそうだが。
 そこにいたるまでのいろんな出来事や記憶なんかがあって、初めて「それ」が大きく身に迫る。
 過去を重ねて在る「今」が、何か大きな意味を持つのと同じだ。

 ネタにしようってんじゃない。
 元々考えてたネタなら、今書かずにいつ書くと。
 あきさんちにある日美かよこさんの、火災に塾生たちを重ねた話のように上手く、深くまとまるとは思えないが(もともと甘々テイストのシリーズなわけだし)、それくらいしか俺にはできん。

 アメリカ在住の友人が一人、巻き込まれていたことを知った。
 いい奴だった。
 奴が日本に来た時、二人して「おまえら樽空けたんじゃないか」と言われるほど飲みまくった。
 ついさっき来たメールでそれを知らされた。
 妹さんからだった。
 たとえば激しく憤慨するとか、泣いてしまうとか、それほど深い仲だったわけじゃない。と思ってた。
 が、彼のサーバーに、私の送ったメールがかなりの量残ってたらしい。
 メールの数見て、親しい人かどうかを分けたそうだ、妹さん。
 その事実が私には重い。
 私が残している彼のメールの数との違いと、それを私に生きている内に伝えないままいなくなったという事実が重い。
 彼が私に何を見て何を望んでいたのか、知ればまたそこから始まったものもあるだろうことが。

 最近身近(遠いんだが)で人死にすぎだ。



2001年9月15日(土)

「さすがに人並みに」

 とまあ、昨日の日記にあったようなこともあるし、いい加減真面目にバイト行かんと、仕事の収入だけじゃ間に合いそうにないんで、これからしばらくは、ようやく普通というか、人並みペースの更新になる模様。
 なんか急に、憑き物でも落ちたみたいにやる気がなくなってみたり。
 やる気というか、ふと冷静になってみると、ここまでむちゃくちゃに書き散らしたものの中で、何か「意味」のあるものはあったんかい、という気がしてきてしまった。
 基本的に自分が気に入ってる話とか、何かいわくのある話はいいんだが、それ以外が。

 まあ、こんな思いっきり青系統入ってる時に創作意欲なんてものが溢れてくるわけでもなく、今は溜まっている分を消費していくのが良さそうだ。
 というかよ。
 一ヶ月の間に何人死んだら気が済むんだいったい。
 こんな重苦しいことは読んだほうも楽しくなさそうだし、書くべきでないかとも思うんだが、身近にいる人間にこそ、言えば余計に気遣わせる。
 少なくともネット世界なら、あくまでもそこにあるのは文字列、画面だけで、私の持つ「リアル」さは薄い。
 読み流せない心やさしい人には申し訳ないが、吐かずにいるとたいていろくなことにはならんもんなんで。

 中学時代に親しくなって、いわゆる親友といえそうな女の子(人、か)自殺したと連絡があった。
 四年間付き合って、結婚まで考えてた男にフラれたんだと。
 恋愛事には淡白な俺には分からん。
 が、あいつの性格というか、いろいろと経てきたものを知ってるから、あいつがそうする気持ちはわかるような気がする。
 今はその事実しか俺の頭には出てこん。



2001年9月16日(日)

「ただ薄く」

 突然、自分で呆気にとられるくらい冷めることがある。
 「はあ?」とも思わないほど淡々と、頭の中が空っぽになるような冷め方、といったところで漠然としすぎちゃいるが。

 逆に、ひどく苛立っていたりした時、実に小さな一言でほっとすることもある。
 ああ、なんでもないんだな、と理屈もなく納得するように。

 昔、自分が結構ギリギリにいた時……それが丁度二十歳前後だったと思うんだが、奇妙な体験をしたことがある。
 当時の私は、とにかくポジティブになるために、こうありたいという理想を書き付けて自分に言い聞かせて、なんとか醜態を曝さんように己をつなぎ止めているような状態だったが、そんな「無理」がそういつまでもできるわけもない。
 ある夜、ダークになりつつ、寝つきの悪さを恨みつつ、ほとんど睡眠に逃げているような有り様で転がってたとある夜。
 「うがー……」と鬱屈していたら、突然、ぽん、と肩を叩かれたような気がして、慌てて振り返った。
 横になってたんだから、逆を向いたわけだが、当然、私は一人暮らしで、そこに誰がいるわけもなく、あるのは押入れの戸だけだ。
 と書くとホラーのようだが、その「ポン」はひどく温かかった。
 そして急に、視界の広さとか明るさとか、そういうものが変わったように、重苦しい気分は消えていた。

 それが私の気のせいだったにせよ、たとえば爺様とか婆様とか、あるいはこの世にはいない友人かもしれないし、もう一人の私なのかもしれないが、少なくとも、そのことで私が落ち着いたことは事実だ。
 そういう、脈絡のない、というか得体の知れない体験は極端だが、人の言葉や態度の一つに、ふと癒されることがある。

 難しい理屈とか考えた結果の「答え」とか体験から得たものでもなく、いきなり「は?」と冷めたり、ほっとしたり。
 こういうものは、説明しようにも言葉にするのが難しい。
 物凄く感覚的なものだから。

 そういったもののほうが、今ここにいる私にとっては「真実」なのかもしれない。
 とまあ、そんな真面目なことを考えてみたりしてみたさ。



2001年9月23日(日)

「ビビッた」

 掲示板のほうにちょっとあるが。
 本日、面白いメールが来てた。
 PSOものを読んでくれていたかたからで、送ったあとで「失礼だ」と思われて掲示板にカキコされたようだが、己的には全然OK、許容範囲というよりむしろ、面白ければそれでいいんで。
 たぶん、自分の中で生まれた「カップリング」について「原作者」に告げたことで慌てられたんだと思うが、いや、そんなこと言ったら、かつても今も、パロディとして好き勝手に設定作ってきた私の、宮下あきら氏やその他多数のかたに対する立場は?(汗

 なんか速攻、ネタにして構わぬという豪気なメールが来たので、さっそく暴露してしまおう(鬼
 私の書いてるPSOの中で、正規のイカれポイントはベータなんだが、Tさん(イニシャルにしても意味ないか)は、出来上がってしまってるカップリング(できてません。ジーンくん気付いてませんので)じゃなくて、なんとも妙なところにいってしまったらしい。
 なにせ、メールの空白をズーッと下にスクロールしていって、見た時思わず「はあ!?」と言ってしまったからなぁ(^^;

 タイラント(ロア)とジーンってアナタ……。
 鉄とナマモノ(♂)でどうせーっちゅーんですか(汗

 なんかちっとも説得力ないかもしれんが、私は薔薇系の話が好きなわけではないし、需要というか、見たいという希望があれば簡単に書けるし、その中で表現できるものがあるなら、設定することに抵抗はないというだけで、ネタとして遊ぶ以上に、あえてそういう関係を築かせようとは思わんのである。
 だからPSOでは、たしかにベータはジーンに惚れてしまっているが、相手がまったく気付かないから、何処までいってもギャグ。
 そんなわけで、自分では思いも寄らなかったのであるよ、コレ。

 「原作者」という立場の中で、人によってはこういうのは嫌いなのかもしれんが、私は面白ければなんでもOK。
 ただ、いくらこの小説がオリジナルとはいえ、キャラクターには、ゲーム世界でそれを作り出した、更なる「オリジナル」がいるのである。
 したがって、そんな話を書けないことはないしあっさりといろいろと浮かんできてはいるが、公開はできないかと。
 あと、「Tyrant」の製作主に悪いんで、彼をそんな壊れた鉄にはできません(笑
 ベータはいいのかって?
 いや、あれはもうプレイヤーも開き直ってるからイイノ(ホントかよ
 そもそもは徹夜でオンやってる時に、「ダーリン」「ハニィ♂」と温泉で背中まで流した仲だから、今更もう引き返せないよネ?



2001年9月25日(火)

「日常的」

 買い物に出かけてみたら、気に入っていた紅茶店が潰れていた。
 あるかたにいろいろと賄賂を送ろうとしているんだが(違う)、そこに紅茶を突っ込もうとしてたのになぁ。
 仕方ない。
 明日は少し遠出するし、ついでに百貨店系でも見てこよう。

 私の場合、知識程度ではなく、事実として自分が好むものを小説に出すところがある。
 そんなわけで、センクウさんが飲んでる紅茶とか、伊達くんが飲んでる酒なんてものは、たいていうちに実際にあるものだったりするのである。

 話は変わって。
 今日、いろいろと部屋の中を掃除していたんだが、もうさすがに動かさないと思われるセガサターンとネオジオCDを箱に片付けてしまった。
 いやー、埃がすごいったらない。
 それでも片付けて押入れに突っ込んで、そうしてふと見る、棚と化したハイベッドの上。
 いったい何が入っているのかも定かではない大きな箱……。
 開けて見るにはいろいろなものを移動させねばならず、結局中を確かめてはいないんだが、……何が入ってるんだろう(汗



2001年9月26日(水)

「何かが」

 なにげなく、氷室のバラードアルバムを買ってきてみた。
 結構な音量で、それもヘッドフォンで聞きながら、まったりと紅茶でも飲んでみる。

 何か、すごく形にしたいものがあるような気はするんだが、それが何かが分からない状態に陥ってみる。
 PSO系なのか……。
 うーむ。出てこない時は潔く、何か別のことでもするべきか。
 ……RAVENでオフのUlt遺跡でも巡ってくるかなぁ……。



2001年9月27日(木)

「ミニ鬼更新?」

 一日に必ず一本くらいは話がアップされていく現在。
 裏に上げているもの、サイトではなくメールでだけ特定の鳥にお見せしてるものを含め、更に仕事で書いてる雑文を入れると、かなりの量になることが判明。
 なんか、キリリクほったらかしてるみたいで申し訳ないんだが、ギアがシフトアップされないことには書けないらしい、『去却』もスーさんのも。
 一気に世界に入り込んで一気にノリと勢いのままに書いたほうがイイモノになりやすいんで、今は細かいものでギアチェンジにいそしんでるんだと思って見逃してください。

 書かなきゃ、と思って書くタイプじゃないんだなぁ、とあらためて自覚。
 面白くなくてもどうでもいい雑文くらいならともかく、せっかくりリクエストなんだし、やはり楽しんでもらえるものにしないと、己が許せん。
 半分は冗談めかしちゃいるが、己、やはり芸人だから。
 期待されると応えずにいられないんでしょう、とあるかたからも言われたが、挑まれると受けて立たずにはいられない、と言ったほうが正確かもなぁ。

 最近、「男部屋」の高橋さん製作の妄想箱でいろいろと遊んでるが、これはたしかに、いろんな発想の引き金になって楽しい。ただ、基本がやはり「×」なんで、アレでナニだが(笑
 が。
 妄想箱、なんてあえて用意されたものじゃなくても、私は動く。
 「も・し・も」の真陸さんの詩にインスパイアされたように、「さくらのつづき」あきさんの小説から絵が出てきたように。
 ちっと特殊なんで、ホモでもなんでもない超シリアスを、一本裏サイトに上げてきたが、これは高橋さんの書かれた小説から一瞬で爆裂したもの。
 やはり、いいものはいい。
 技術だのなんだのなんてものは、私も知らん。知らんから、何がどうでどうなっているから、そこが私を動かしたのか、とか響いたのか、なんてものは説明できんが、一つの台詞が本気でダイレクトに響いた瞬間に、それが起爆剤になった。

 私も誰かにとって、そんなふうに、理屈もなく響く何かを、一つでも出せているんだろうか。
 とかまあ、真面目に考えちまったよ。



2001年9月28日(金)

「徹底的に浸ってみる」

 『Glass-Rose』を書いててね。
 たいてい、私が浸りきってる話ってのはあまり感想がこないんだが、それはつまり、面白くなくはなくても、あえて感想を、と思うほど面白いもんでもないってことなんだろうけれど、そんなことはどうだっていい。
 狙ったものが的に当たるかどうかなんて、的が見えてもいないのに分かるわけもない。
 私はとにかく下手な鉄砲もなんとやらで乱射しておけば、その中にどれかピタリとくるものがあるかもしれないんだし。
 というわけで、芸人としては楽しみを提供したいわけでもあるが、人様の顔色窺ってちゃ三流でもある。
 好き勝手やって、その中に人様巻き込んで一流。
 だったら、自分が何流かなんぞ知ったこっちゃないが、少なくとも自分でも好きだと言える程度のものを形にしてばらまくのが正しい姿勢ってもんだろう(そうか?

 まあ、模索段階としてはいい感じに書けたか、と自分では気に入ってるからいいのさ。
 で、こういうものを書いてたり、読み直したりしている時には、どうせなら自分なりに、徹底的に雰囲気を作ってみたくなる。
 そりゃあなんの変哲もない部屋の中で、古いPCに向かっている時点で雰囲気なんて欠片もないが、雑多なものが見えないように電気は消して、夜の暗さを窓から取り込んで。
 イメージする香が「BALA VERSSAILLES」ならそれを持ち出し、紅茶でも淹れてみようか。
 アールグレイを飲むなら、それを生み、売り出したジャクソンのものを使って、ほとんどをミルクで出すロイヤルミルクティに。
 カップは銘柄より色合いで選んでみる。
 BGMはヴァイオリンの小品集でも……。

 ってなんでそこで「ツィゴイネルワイゼン」がかかるか!?

 って、こんなネタ、クラシックに詳しくなけりゃ分からんな(汗
 暗い曲です。えっらく暗い。
 いかん、このCDは駄目だとショパンのエチュードに入れ換えてみたものの、なんか今一イメージと違うんだがなぁ。
 と、更に入れ替えてベートーベンの「月光」。
 しかしこれも第一楽章暗い……(汗
 はっきりいって「葬送」より暗いんじゃねえかってくらいに暗い。
 サティのジムノペディ辺りにするか、とCD探してみれば、貸し出し中やないのそれ(泣

 と、結局なんだかんだで雰囲気など欠片もなくなり、現在かかってるのはベートーベンの「熱情」だったりして。



2001年9月30日(日)

「責任」

 六月初日にこの巣を作り上げて公開し、これで丸四ヶ月がたった。
 思いがけず早い時の流れだと思う。
 男塾つながりの、あちこちのサイトの管理人さんと知り合いになれたし、何人かのかたとは、毎日メールをやりとりして、「友達」と言っても許されるんじゃないかな、と思う。
 メールこそ頻繁ではないけれど、やはりただの「知り合い」ではないな、というかたもいくらかいらっさるし。
 やはり、嬉しいと思う。

 しかし、こういうところで不特定多数の人を相手に何かを公開している以上、その内容については充分な注意を払わなければならないし、発言内容などには責任を持たなければならない。
 たしかに、言論の自由はある。
 それに、不特定多数の人間、誰にとっても快い言葉なんてものは存在しない。
 ならば尚更、誰かにとって不快であったとしても、慌てて引っ込めなきゃならないような、半端な気持ちで言葉を発しちゃいかんな、と思う。

 好き勝手にわめいていいと思うんだ、己は。
 人を傷つけたり不快にすることが目的でないのなら、なにを言ったっていいと思ってる。
 私は、何を見ても構わない。
 度量、とか言うと言葉が良すぎるが、要するに無節操な分、許容範囲、守備範囲の広さには自信があるし。
 ただね。
 いい加減な、適当なポロッと零した言葉で不快にならされたら、馬鹿みたいだろう。
 そんなくらいなら、どんなに過激でもいい、「私はこうなんだ!」という主張が、私の意見とは完璧に相反していたほうがいい。
 はっきり言って、「あんたのそれは違う」とか「なに言ってんの?」とか言われても引っ込めないくらい、マジな言葉なら己はそれでいいと思う。
 世の中、絶対的にただしいことなんてないし、確実な正解もない。
 何もかも相対的で、環境や状況によっても善悪は変化する上に、受け取り手の感情や気分にまで左右される。
 そんなもんにいちいち付き合って合わせてられるかよ。

 と、そういう気迫で、誰に非難されても胸を張って貫ける言葉を吐けばいいんだと思ってるわけ。

 小説なんかも一緒。
 薔薇系のものにはカップリングがあって、それは人によって違ったりしてる。
 けど、そんなもん気にしてたらなんにも書けんしなんにも出せん。
 だから、開き直って気にせずに好き勝手やっていい。そりゃ当たり前だ。
 趣味・嗜好の問題だから、見たくない奴は見るな、でいい。
 ただ、やはり思う。
 これもやっぱり、「こんな二人は違う」と言われてもたじろがなくて済むような、自分の中で確信を得られるものを出して行きたい、と。
 というか、それは己なりの礼儀として、今後も守っていきたい。
 人に守れとは言わない。こんなもんは、己が決めた己の信念というか、美意識というか、哲学というか、矜持というか。
 人様に強要するもんじゃない。
 たださ、自分の好きなキャラがいい加減に扱われているのを見ると私はあまりいい気分しないから、己でそれはやらない、ってだけのこと。
 どんな扱いでも、一本通ってればそれでいい。
 書いてる人が楽しんでるなー、と分かるとか。それで充分。
 キャラがどれくらい作りこまれているか、は己が見抜けるようなことじゃないし。
 うちの男塾ものは、いろんなパターンのキャラが出てきて、物凄く節操ないように見えるだろうし、だから余計に、このことは気をつけんといかんな、と思う。
 好きなキャラは、たぶん、自分の中にない設定で動かされるよりむしろ、適当に動かされているように思えることのほうが嫌だろうから。

 しかし己、ネットについては素人同然で、知らないことも多い。
 いわゆるネチケットとか、守ってない時、ところもあるんじゃないかと思う。
 そういうのは、見つけたら指摘してもらえると助かる。
 ただ、知らない・気付かないでやってしまってるだけだと思うんで、それで人に不快感を与えようなんてわけではなし、優しくしてネ(←殺ってOK
 なんか、昔見かけたサイトで、「こういうものを運営していくには私には至らないところが多すぎるので」と閉鎖の言葉を書かれたサイトに行き合ったことがある。
 そんなふうにならんでいいよう、正当な忠告についてはちゃんと耳を傾け、趣味・嗜好の範囲のことなら、問答無用で押し通せるくらい、己にとって確かなものを、披露していきたいと思っている。


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